ペッシくんというのはこの店の常連青年の名前で、ときどき引くほどかっこいいイケメンを連れていることがあるけれど基本的には1人でやってくる。お使いなのかいつも小さなメモをもって「今日はこれと、あれと、それを、」って1つずつ確認しながら買い物をする彼はなんだか可愛らしい。

そのメモは最近までイタリア語が読めなかった彼には解読の難しい、良く言えば達筆なメモで、詰まったり間違えたりしている様子は見ていて可愛らしくはあるんだけれど、夕方にもう一度店に来て「買い忘れがあって…」としょんぼりする様子はやっぱり可哀相だった。「じゃあ、今度はメモ私にも見せてくださいよ。一緒に確認しますよ」って声をかけて、そうしたら明るい顔で「ほんと!?助かるよ!」と言ったので、弟みたいで可愛らしいなと思っていた気持ちはぐっと持ち上がって恋に昇格した。



「こんにちは、
「いらっしゃいペッシくん、今日は何がいるの?」
「うーん…、トマト…と、パスタ、今日はそれだけかな…」
「本当に?見せてみて」

こうやって気安く話せるようになったのはここ1か月くらいの話だ。いつまでもかしこまって話していた私が、もう少しだけ距離を詰めたくなって敬語をやんわり崩した。何も気にしてないみたいに会話してくれるから、きっとこれはOKの合図だって思って少しずつ、少しずつ崩していくのにかなりの時間を要してしまった。日本人は奥手なんだ…、たぶん。

「あ、今日はあってそう…じゃないね、パンもいるんじゃない?ほらここ」
「ああっ!ほんとだ、助かったよ…また兄貴に怒られちまうところだった」

ぐちゃぐちゃに綴られたメモの端っこに記載されたイタリア語は私も読むのが難しいけれど、よーく見ればこの店で買うものとしてパンも記載されている。きっと後から付け足されたんだろう。ほっと胸をなでおろすペッシくんはにこりと笑って、じゃあそれで。と言ってお財布を出した。

「はい、ちょうどいただきます。毎度ありがとうね。またよろしく」
「俺こそ助かってるから…、じゃあ、あの、またね」
「気を付けて帰ってね」

買い物の時間なんてほんの数分だ。会話をするようになったってそれ以上のびることなんかない。買い物袋を抱えて帰っていくペッシくんの背中に手をふって、扉が閉じる音を聞いて息を吐いた。

「…いくじなし。渡せなかったなあ」

机の下にこっそり隠されたチョコレート。今日は2月14日で、バレンタインデー。
私の生まれ故郷の日本ではチョコレートを好きな人に渡す習慣がある。イタリアにはそんなものないけれど、「って日本人なんだね」っていう会話をきっかけに「この前テレビで見たんだけど、日本って…」って話題を仕入れてきてくれるペッシくんはきっと、このチョコレートを渡したら日本のバレンタインの意味くらい調べてくれるかもしれない。

ただの行きつけの店の店員である私がこんな気持ちを抱いて接客してるだなんて知ったら引いてしまうかもしれないし、もしかしたら受け入れてくれるかもしれないし、どうなるかわからないからこそ怖くって…、結局しまい込んでしまった。今日買い物に来てくれるかどうかだってわからなくって、もし来てもらなかったらその時は諦めようなんていう言い訳を用意していたのにあっさり来ちゃって、結局渡せない私は意気地なしだ。

「…自分で食べちゃお」

メッセージカードなんか書いて、見る人が見れば明らかに本命なチョコレート。人に見られたら恥ずかしいから、あとでカードはこっそり捨ててしまおう。もう少しだけ勇気が欲しかった。ペッシくんはふんわりしているようで実は意志の強いところがある人だから、彼にふさわしいのだってそういう女の子だ。そう思ったら、なんだか少し悲しくなってしまった。

ちょっとだけ出てきそうになった涙を拭おうとした瞬間。カランとなったベルに慌てて「いらっしゃいませ」と顔を上げると、そこに立っていたのは。

「…ペッシくん」


その顔はどこか赤くて、なんだかそわそわしていて視線は私に向いていない。ねえどうしたの、と言いたい声が、泣く寸前だったせいで出てこない。

ペッシくんは私のところまで来ると大きな身長で私を見下ろして、何か言おうと何度か口をぱくぱくさせた。

「…あの、。俺、は日本人だから、日本の文化とか、いっぱいお話したくって…いろいろ調べて、覚えて。で、それで」
「うん」
「それで…ね、今日はバレンタインだろ、だからこれ」

カバンから取り出された包みは名前を聞いたことがあるお店のものだ。美味しいチョコレートを売っているお店。私はその店をよく知っているし大好きだし、なんなら今日の仕事が終わったらそのチョコレートを食べる予定だった。それがなんで。と、座った状態から見上げるには大きすぎるペッシくんを見れば、その顔はもう燃えそうなほど真っ赤になっていて。

「…女の子から渡すことが多いって書いてあったけど…、男からあげても、いいんだよね?」
「うん……うん、いいんだよ。あってる…」
「良かった。これだけ渡したくて。さっきは勇気が出なくて出せなかったんだけど、でもやっぱり、後悔はしたくなかったからさ」

笑った顔はいつもよりずっと男前だ。そういうかっこいいあなたに、ふさわしい勇気のある女の子なんていくらでもいるだろうに。でも、彼が勇気を出してくれたのなら、私だって頑張らないと。直接的な言葉はなくたって、もう気持ち、もらっちゃったから。

「ペッシくん、私も、これ」
「これ…俺に?」
「うん、さっきは勇気がなくて渡せなかったけど、ペッシくんに日本のバレンタインの…”本命”、あげたかったんだ」

驚いた瞳はみるみるうるんで、慌てて振り払った雫が散って光った。綺麗だね。かっこ悪ぃとこ見せらんないからって言ってちょっと横を向いてごまかしたペッシくんは全然かっこ悪くなんかない。勇気を出して、こうして戻って来てくれたんだから。だからそうだな、きっと先に好きになった私が、きっと年上だろう私が、最後の一歩を踏み出してみよう。

「ねえペッシくん、好きです。私と…付き合ってくれませんか?」


勇気を出して渡した気持ち