彼女と過ごした初めてのホワイトデーはそろそろ寒さも和らぎつつある1年前で、短いようで長いような、長いようで短いようなそんな50日ほどの旅を終えた2か月後だった。すっかり元の生活に戻り命がけの旅をしたことなんて嘘みたいだと思いながら過ごしていて、バレンタインにもらった”義理”を強調されたチョコレートのお返しを考えていた。

「これは…義理のチョコレートだから。承太郎と同じ、義理のやつ」
さん、ありがとう。そんなに強調しなくたって勘違いしないよ」
「う、でも、承太郎と違うチョコだから、そっちの方が豪華に見えたら、特別に…見えちゃうかと」
「同じじゃないの?」
「え!?あ、そう、おなじ、同じなんだけど…!」

そんなやり取りをして受け取ったチョコレートは、その時にはすでにさんに惚れきっていた僕を喜ばせるには十分だった。あとから承太郎に見せたら、「俺のとはずいぶん…違うな」ともらったチョコレートを見せてきて、確かに同じと言えばメーカーは同じだな、と嘘ではなかったことを確認する。しかしその大きさや形には本命と義理くらいの差があるように見えて、勘違いしないように、勘違いしないようにと言い聞かせる僕に承太郎は面倒くさそうな顔をしながら「言わねーのか」と呟いた。

思えば彼は、とっくに僕たちのもどかしい関係に気づいていたのだからあの淡泊な反応はそれでも優しかったのだと思わざるを得なかった。けれど僕は、あんな旅をして、かっこわるいところもみっともないところも荒々しい部分だって何もかも見せてしまった相手に今更恋愛面で好かれるだなんて思っていなかったのだ。多少思い上がってしまいそうなバレンタインをもらったところで、やっぱり最後の一歩を踏み出す勇気なんてなかった。



そんな僕たちがごく普通の恋人同士みたいになれるなんて奇跡みたいだ。生まれ持ったスタンドのせいでだれとも分かり合えないと思っていたのに、きっとこの先一生を過ごせるんだろうなと思える女性と出会って、手をつないで隣を歩いて、愛しいと思ってキスをして。自分は一人なのだと思って生きてきた今間の人生なんて全部なかったことになってしまいそうなほどの幸せ。

「典明くん」と名前を呼ぶその唇が動くのについ目を奪われるようになったのはいつからだろう。その唇に触れてみたいと、それはどんな感触なのだろうと考えれば考えるほど眠れなくなって、そんなことを考えている自分を恥じた。その感触を知ってしまったら、今度はもう一度確かめたい、だなんて思うようになってしまって…。ああ、やめようこの話は。自分にこんな一面があるなんて、自分でだって知らなかったんだ。

そんな1か月前のことを頭から振り払いつつホワイトデーに何が欲しいか尋ねたら、はきょとんとした顔をして「あれが、もうお返しなのかと思った」だなんて真顔で言うので、うっかり盛大に照れてしまってからかわれた。彼女は初心で純粋なように見えて、存外強からしい。あの旅を一緒に終えたのだからそんなことは当然知っていたのだけど、過酷な旅の途中でも学生に戻ってからもほとんど変わらない態度の彼女を見ているとそんなことはつい忘れてしまいそうになる。

まあ、ちゃんとお返しは渡すから、その日はあけておいてね。仕方ないから自分で考えようと希望を聞き出すのはあきらめて、とりあえずの約束を取り付けたのは先週のこと。

なかなかお返しが決められず悩んで悩んでついに明後日に迫ったホワイトデーに、何度「もう一週間時間をくれ」と願ったってそれはかなうはずがなかったので僕はすっかり途方に暮れてしまった。

彼女の好物がぱっと思い浮かばないなんて彼氏としてどうなのかと思う気持ちがあった。正確には、わからないのではなく絞れなかった。50日間も一緒に旅をした中で彼女が口にした「美味しい」「好ましい」はあんまりにも多かったので、その”好き”の度合いがわからないのだ。なんでもおいしいと笑顔で食事をする彼女のことは素直に「かわいいな」と思ったのだけど、こういう時に困るものなんだな。

はあ、とため息をついて布団に倒れこむ。もう明日、考える時間はもう残りわずかしかない。何かヒントがないかとやりとりしたメールを読み返したり今までの会話を思い出したり旅のことを思い出したりして貴重な時間を消費していると、ふと何か思いついたような気がした。必死に記憶を呼び起こして、やっと捕まえた1シーンを反芻する。

「ゲームってあんまりやったことがないの」
「簡単だよ。何かやってみる?はどんなのが好きかな…」
「あ、ううん、私の好みより、典明くんが好きなやつ教えてよ。私、典明くんの好きなものが知りたい」

すっかりお互いの部屋の行き来にも慣れたころ、部屋にあるゲームソフトに目を付けたとの会話だ。私の好きなものは私が見つけられるから、新しいものは典明くんの好きなものが知りたい。そんなことを言ってはにかんだ彼女の顔はなんだかいつもよりちょっとだけまぶしく見えてどきんと心臓がはねた。

そうだ、せっかくプレゼントするのだから彼女の好きなものではなく自分の好きなものを送ろう。どんなものでも喜ぶ彼女だからきっと笑ってくれる。そうと決まれば話は早い、飛び起きて寝ぐせがついていないか確認して家を出た。





「典明くん、こんにちは。おじゃまします」
「いらっしゃい、適当に座ってて」
「何か手伝う?」
「いや、いいよ」

わかった、と慣れたように僕の部屋にあがって行くの背中を見送って、昨日3度も焼いたアイツを切って皿に盛りつける。まさかいつものお店が臨時休業だなんていうのは予想外で、どうしようかと頭を悩ませて思いついた手段は手作りだった。1度失敗し、2度目は見た目が悪く、3度目の正直でようやくできたそれはなかなかの出来だと思う。以前が手土産に持ってきた良い香りの紅茶と一緒に部屋に持っていけば、その香りにはぱっと顔を上げた。

「あ、それこの前のだね」
「うん、それとチェリーパイなんだけど、食べられる?」
「チェリーパイって食べたことない。美味しそうだね」

さっそくいただきますと手を合わせるに少しだけ緊張したけれど、口の中に姿を消したチェリーパイはを笑顔にすることはできたらしかった。

「おいしい…!すごい、これどこのやつ?」
「作ったんだ」
「え…作ったって、典明くん、が?」
「そう。ホワイトデーだろ?」

ホワイトデーだからという名目で取り付けた約束なのだから気づいてはいただろうけれど、何か物が渡されると思っていたのかもしれない。手作り、と繰り返してもう一口を口に運んだは「すごい、」と感想を漏らした。

「すごい、これ、すごくおいしい!典明くんってもしかして天才なのでは?」
「はは、それは言いすぎだよ」
「だってこれ、すごくおいしいよ…なんか、特別な隠し味でも……あ、」

そこまで言うと、は手を止めて目をそらした。フォークを置いて空いた手を口元にあてて顔を隠す。

「どうかした?なんか入ってたかな」
「……ううん、そうじゃないんだけど…。ちょっと、ちょっと待って」

目をそらすどころかくるりと体の向きを変えてうずくまったの髪の毛が柔らかく揺れて、少しだけ見えた耳まで真っ赤になっていた。それはまるで、パイの上に並んだチェリーのように。

「…私が、勝手に恥ずかしくなっただけなの」
?」
「ほら…先月、私がつくったチョコに典明くん同じこと言ったでしょう」
「ああ、確かに言ったけど…」

だからどうした、と続きを促すように近づいて顔を覗き込んだら、ここ数か月で最も赤い顔に涙を浮かばせている表情が見えた。さすがに少し焦って、どうしたのかと声をかける。

「…あのね、隠し味、ほんとうはあったんだよ」
「そうなの?」
「うん、それがね、典明くんのとおんなじなのかもって思って…ちょっと恥ずかしく」
「僕は何にも入れてないけど」
「うう……」

膝に顔を隠したが続きを話すのを待とうと乗り出した姿勢を正した。まだまだあるから食べよう、紅茶も冷めるよ、と背中に手を当てたら、ようやく観念したように膝を伸ばしてうるんだ目でまっすぐに見つめられる。

「典明くんに、おいしいって思ってもらいたくって。大好きって、めいっぱいの愛情の…隠し味、を、私は…」

勇気を出して振り絞ったらしいセリフはやっぱり後ろが小さく消えた。けれど、その顔のチェリーみたいな赤い色を僕の顔に伝染させるには十分だったようだ。

「……はあ、…。それなら僕だって、…そうだな、同じものが、たぶん入ってる」
「たぶん?」
「…入れたよ」

相手のほうが照れると、むしろ余裕が出てくるらしい。ふふ、と楽しそうに笑ったは、こぼれそうだった涙をぬぐって赤くなった頬に手を当てた。

「本当にね、お返しなんてよかったんだよ。私はだってその、あれで、もうお返しはもらったつもりだったから」
「そうはいかないだろ」
「気持ちの問題。私はこれにもお返しがしたいなって思っちゃったから…ねえ、どうしよう。何が欲しい?典明」

は、と、声を出したはずだったけれど出てこなかった。きっと自分が真ん丸に目を見開いたのだということはのちょっとだけ意地悪な笑顔を見ればわかる。

、」
「典明、びっくりした顔してる」

自分から名前で呼びたいって言ったくせに照れるからとくん付けだったと2人、どこまでも照れてまともに会話もできなくなったのはそんなに昔の話じゃあなかったはずなのに妙に懐かしい気持ちになる。

さ、食べよう!とチェリーパイに再び手を付けたはもうすっかり調子を取り戻しているけれど、こちらはそれどころじゃない。紅茶冷めるよなんていうに、誰のせいだなんて言い返せないくらいに心臓が速く鳴っているから、やっぱり彼女にはいつまでもかなわないのかもしれないと思った。

手作りチェリーパイ