開け放った窓の外で、さあさあと少し強い風の音が響いている。心地よい気温で、ソファに座って本を読むのに最高の時間だ。きっと昔の自分なら、今手元にある本は解剖学とかそういう本だったのだろうけど、今はごく普通のありふれた物語だ。テレビでみた、最近何かの賞を取ったらしい有名な作家の本。出かけた先で店頭に大きくコーナーが作られていたから、はやりものも悪くないと気まぐれに手に取ったものだ。人気がでるのはわかるな、という印象だった。確かに面白くはある。

終盤の盛り上がりを終えて、物語がゆっくりと終わりに近づき平穏な空気が漂うところで本を閉じた。この小説は、最初は他人だった男女がたまたまあるきっかけで知り合い、それからいろいろな困難を乗り越えつつお互いが1番大切だと認識し恋に落ちていく、なんていうありきたりなハッピーエンドだ。どこにだってあるような。何のトラブルもなくのんびりと、自分の命を危険にさらしたりしないで生きて行く人間にはこういうものは酷く新鮮で眩しく刺激的にうつるのだろうか。

自分たちが経験したいろんなことを、本にしてみたら面白いかもしれないな。いろんな事情で暗殺者になった男女が、組織内の権力争いでチームの仲間全員を失い2人きりで生き残る。うん、なかなか面白そうだ。

台所からトントンと聞こえてくる穏やかなリズムは幸せのリズムだ。この音を聞くと、顔も思い出せない母親がそれでも小さいころは確かにいたのだということを思い出す。まだ何も考えたりしゃべったりもできないくらいに小さいころ、この音をずっと聞いていた気がする。トントン、包丁がまな板を叩く音に、ほんのり良いにおいとぐつぐつと何かが煮える音。穏やかに、ゆっくり生きている音だ。

お昼まであと少し、きっともうすぐが呼びに来る。メローネ、もうすぐごはんできるよ。未だ慣れないそのセリフはくすぐったくて、おれはいつだって笑いたくなるんだ。もきっと同じで、おれがくすくすと笑うと一緒に笑う。だけど今日は、すこしの意地悪を思いついた。

パタパタとスリッパの音が聞こえて来たから、ほらね、タイミングがぴったりだなんて笑いそうになる頬を引き締めて目を閉じた。ソファに体重を預けて眠ったふりをする。はどんな反応をするかな。

「メローネ、もうすぐごはんできるよ……あれ、寝ちゃった?」
(うん、おれ眠ってるよ)

ソファの前に膝をついたらしいことが気配でわかって、けどそれも少し自信がなかった。昔なら目を閉じていたって正確にその位置はわかったはずだし、指先の一本一本が何をしようとしているのか感じ取れたんだけどな。平和に慣れてしまったってことだ。

の小さな手は水仕事をしていたから冷たくてしっとりしている。そっと俺のお腹に乗っている手に触れて、指先を掴んで、やわやわと握る。その手はゆっくりと腕を伝って肩まできて、首に触れたから少し驚いて動いてしまった。けれどそれは起こしてしまいそうになったのだと思ってしまったらしくはぱっと手を離した。残念、もうすこし触れていたかったんだけど。

息をのんだはやがてほっと吐き出して、もうすぐお昼ご飯なのに起こそうとしないどころかゆっくり寝かせてくれるつもりらしいことに愛されてるなあなんて思ってくすぐったくなった。背もたれに置いてあった毛布がふわりとひろがって体を覆って、その上からが抱き着いてきた。指先が唇をなぞる。キスでもしてくれるのかな、なんて思ってちょっぴり期待したんだけど、降ってきた言葉は予想外だった。

「ちゃんと、生きてるよね」

抱き着いたの頭は胸のあたりにあるから、心臓の音でも聞いているんだろうか。震えた小さな声で呟いたそれはあまりにも切ない響きでメローネの鼓膜を震わせたから、ぱちんと音でも立つのではという勢いで目を開いた。


「わ、メローネ。…起きてた?」
「ううん、寝てた…けど」

ぱっと体を離そうとしたの腰を押さえて逃がさないようにする。それに抵抗したりしないはもう一度胸に頭を預けてきて目を閉じた。

「うそ、おきてた。が起こしてくれるかなって」
「起こさないよ。…でも、ちょっと起こしたくなったから、心臓の音きいてたの」

メローネが駅で眠っているみたいに死んでたこと、今でも時々夢に見るの。メローネのこと大好きだったって、やっと気づいた馬鹿な私は泣いてしまって。みんなを追うように死んでしまったあとのなんだか不思議な世界のことはもうおぼろげなんだけど、あの時メローネの背中から何の音も聞こえなかったことを思い出した。綺麗な顔して眠ってるから、もしかしたらまた、何の音も聞こえないんじゃないかって思ったら怖くなって。もしメローネがいなくなってしまったら、私、本当に独りぼっちになってしまうから。

ゆっくり話しはじめたはやがてまくしたてるように早口になって、それからぽつり、と、最後の一言を発して涙をこぼした。あーあ、泣かせちゃったな。みんなに怒られちゃう。

「ごめん、不安にさせてごめんね」
「いいの、大丈夫だから。メローネが一緒に生きてくれるってわかってるから」

ごしごしと涙を拭うから目元が真っ赤になって、そんなところも可愛くてキスをした。びっくりした、って全然びっくりしてないような顔で今度はからキスを返してくれて、平和でほんとうに幸せだなあと思ってたら窓がガタンと音を立てた。

外には何もいないのに、風だって強くもなんともないのに、この家は時々こうして音を立てる。それは喧嘩をしてを泣かせたときとか、俺が遠出してを寂しがらせたときとか、それからこうして仲良くしているときとか。だからきっとこの音は、あいつらの誰かがたまらず叩きつけたりして鳴るんだと俺たちは思っている。たとえばギアッチョとか、ホルマジオとか。イルーゾォかもしれないな。

「…ごはん、たべよっか。今日はメローネの好きなものつくったよ」
の作る物なら何でも好きだけど?」
「うん、だから私の好きなもの」

えへへ、と立ち上がったはもうちゃんと笑顔になってる。この先の時間はまだまだ長いけれど、ずっとそうして笑っていてほしいな。

2人で生きる何でもない日