将来はプロになるのだと意気込んでいた少年は、事故にあい利き腕に麻痺が残った。リハビリをすれば日常生活に問題はないけれど、もうそのスポーツでプロを目指すのは絶望的。そう告げると誰を責めるでもなくボロボロと涙を流し、悔しいと一言。

「泣かないで。ねえ、人生、何が起こるかわからないものよ」

それは私の口癖である。

「君はまだ若いから。これは医師としての言葉ではなく私個人からのお話だよ。リハビリをすっごくがんばったら、もしかしたら元通りに動くまで奇跡的な回復をみせるかもしれない。けれど、リハビリをすっごく頑張っても、ギリギリの日常生活を送れる程度が限界って可能性だってある。人生は何が起こるかわからないの。最後まであきらめないで、自分のことを信じてこれからも努力をするのが1番大切」

ぼろぼろと泣いていた少年は涙をぬぐい、絶対にまたチームに戻りたいと強い目を向けた。それで良い。その目を見せられるなら、君はもう大丈夫だ。がんばろうね、と背中に声をかけて閉まる扉を見送れば今日の仕事は終わりだ。ふう、と一息ついて片づけを始める。

人生って何があるかわからない。それは私の実体験に基づく言葉だ。ごくごく普通の人生を送ってきた私はごく普通の会社に就職し、可もなく不可もない仕事をしている普通の人間だった。それが気づけばたまたま夜道で出会った男(のちにギャングだと知る)と体の関係を持ち、気づけば一緒に暮らしていた。以前の仕事をしていた私は死んだことになっていて、今の私は何か違法な手段で用意された新しい戸籍で生きている。

私がたまたま出会った男はギャングだったが、ギャングはギャングでもボスお付きの暗殺者であった。いろいろあって、さすがにカタギの仕事じゃなさそう、ギャングとかなんじゃないか、と思ってその手をとりはしたが、まさか具体的な仕事が「暗殺」だなんて思わなかったので最初に聞いたときはちょっとだけ、ほんのちょっとだけ引いた。

でも彼は優しく、ときどき危ないこともあったけれど必ず私を守ってくれた。彼のチームメイト(やっぱり全員が暗殺者だけれど)も私に優しくしてくれた。郊外の一軒家から、危険を回避するためにギャングの本部近くに移り住むことになった時は心臓がすり減るところだったけど、私は何もせず家にいるだけで以前よりずっと良い生活が送れたし、街を管理するギャングに顔が知られたので外を歩いていても基本的には危ない目に合うこともなくいろんな人と交流して暮らしていた。

せっかくのんびりした生活を送れるのだから、とたまに怪我をして帰ってくるメローネのために医療について独学で学び、それに気づいたメローネが「資格をとったら」というのに流されて気づけばギャング組織の病院で勤務する医師になっていた。人生って何があるかわからないでしょ。

「暗殺者が人を殺して得たお金でとった医師免許」というのは随分と矛盾を感じるが、そういう感覚は気づけばマヒしてしまっていた。長年ギャングと付き合うとそんなものだ。

この病院は基本的に傷ついた構成員の身を守りながら安全に治療できるようにという業務がメインなので、表向きの一般診療時間はとても少ない。片づけを終えてお昼を食べたら午後は病院の裏側のお仕事が待っている。今は重傷患者がいないのでさっと終わらせて家に帰って、メローネの好きなごはんを作って待っていよう。今日も平和だ。





玄関の扉が開くのと同時に、ただいまあ、と間延びした声が聞こえる。これは今日の仕事が特に何事もなく終わった日の声だ。「ただいま」の一言で私はその日のメローネがどうだったのかわかってしまう。作戦がぴったりはまってとても良いことがあれば「ただいま!」と元気に。特になにもなければ今日みたいな「ただいまあ」という間延びした声。「ただいま」と短く言うときは何かうまくいかないことがあった日だ。怪我をしてしまった日は「た、ただいま」と弱気になるし、大けがをした日は扉を静かにあけて私に気づかれないように帰宅しこっそり自分の部屋に隠れてしまう。全部お見通しなんだよ。

「おかえりなさいメローネ、ごはんできてるよ」
「ただいま。ごはんよりがいい…」
「はいはい、ごはん食べてお風呂はいったらね。今日はシチューだよ」

リビングに入ってきたメローネは、声色こそごく普通の日という感じだったが顔を見たらちょっぴり疲れてそうだった。汚れた服を脱いで洗濯かごに放り込む。仕事着だというそれを始めてみたときは驚いたけどもうすっかり慣れっこだ。今日の仕事はねえ、と少し遠出した先の街の話をしながら食事をするメローネを眺めているだけで、私は幸せになる。その少し甘えた口調は私だけが知っているものだから。





深夜の闇の中で真っ白に明るい月を背負って張り詰めるような鋭い目をしていたメローネだけど、彼は思いのほか可愛くて人に甘えるのが好きな人だ。うちに来るメローネはいつだってかっこいいメローネだったものでこれはちょっと意外だったところのひとつ。

「だって、にかっこいいって思われたくてさ。女の子はかっこよくて頼りがいのある男が好きだろ?」
「そうかも。窓から入ってきたメローネ、すっごくかっこよくてドキドキしちゃった」
「だからかっこつけてたんだよ。好きだって思ってほしかったから」

実際、好きになっただろ。そういって、一緒に暮らし始めた頃のメローネは笑ったけれど、私はそんなかっこつけたメロ−ネを見るよりずっと前、初めて月の下で出会った時からもうあなたのこと気になってたんだよ。私に好きになってもらうためにかっこつけてたんだっていうメローネはもちろん今でもかっこいんだけど、やっぱり可愛い人だなって思った。

なんだかんだ3年の付き合いがあったメローネとは、まるでそうなることが生まれつき決まっていたのかもと思うほどすんなりと暮らすことができた。家族といるのだってなんだか居心地が悪いと感じながら生きてきて、一人暮らしを始めたときには今までずーっと息が詰まっていたのが急にクリアになったような気持ちになったのにとても不思議。

メローネって新鮮で綺麗な空気みたい。そう言えば「なんだよそれ」って無邪気に笑顔を見せるから、胸に湧き上がる今までに感じたこともないような大きな愛しさが膨れ上がる。メローネはすごいね。ちゃんと他人で存在感があるのに何の圧迫感もない。私の人生に必要不可欠な酸素みたい。やっぱり、「変なこと言うなあ」ってメローネは笑った。





ご飯を食べてお風呂に入って、温まったメローネはもうほとんど眠っているのか起きているのかわからない状態でもそもそと膝に擦り寄って来る。思ったより疲れてたんだねえ。その頭をなでながらなつかしい一緒に暮らし始めた時のことを思い出して少しだけ笑ったら、眠そうな声で「どうしたの」聞いてきた。寝ちゃってもいいのに、私の様子なんか気にしなくっていいのに、メローネはこうやってすぐ私のことを気にする。

「メローネは甘えんぼだね、って思ったの」
「ああ…前に、そんな話したっけ…」
「うん。なんだか懐かしいなあって思って笑っちゃった」
「…そう、……」

話していたけど、本当に限界だったらしいメローネは静かな寝息を立て始めた。私の手を握って、膝の上で目を閉じる。長い金色の睫毛が閉じられた瞼に影をおとしている。男性なのに私よりずっと綺麗な顔だ。おやすみメローネ。小さい声でつぶやいたら、ほんの少しだけ身じろいで口を動かした。きっとおやすみって言ったんだ。社会から失踪してギャング組織お付きの医者になった私とメローネとの生活は、これからも月明かりみたいにやわらかく穏やかに刻まれていく。