「シニョリーナ、今日は随分疲れてるんだな」
「あ、プロシュートさんだ。お疲れ様です」

カウンターに突っ伏して目を閉じていた私に声をかけてきたのはこの周辺を取り仕切るギャングの1人で、彼はギャングと言われてもピンとこないような美しい青年だった。芸能人か、モデルか、神様の遣いか…。まあ、動いて喋れば一発でわかる、どこからどう見てもギャングなのだけど。

「なんかねえ、疲れちゃったんですよ」
「そうか、そりゃ大変だな」
「何がとか、どうしてとか、聞かないんですか?」
「聞いてほしいのか?」
「うーん…」

何に疲れたって、そりゃいろいろなことだ。生きているといろーんなことがあって、たのしかったり幸せだったりするのと同じように悲しいことやしんどいことがあふれている。総合的にプラスとマイナスは0になるようにできているって聞いたことがあるけれど、それが産まれてから死ぬまでに平均されるというのであれば、私の人生は今の時点ではマイナスに偏っているんだと思う。この先今まで以上に良いことがあるってことだ、と自分を慰めようとしたって、そうそううまくはいかないけど。

はあ、と小さいため息をつくと、隣で私を見ていたプロシュートさんが手の中のグラスを傾けて氷を鳴らした。カラン。綺麗に響く音はプロシュートさんが鳴らしたからそうなった。私がグラスを傾けても、ガラン、ぴしゃり、と濁った水音が響くだけだ。

「人生って、良いことと悪いことは最終的におんなじになって、プラマイゼロになるんだそうです。うまれてから死ぬまでの間でバランスがとられるっていうなら、私の人生、今の時点ではマイナスの方が多い」
「そりゃ、この先大きな良いことが待ってるってことだろ」
「そう、そう考えればいいんですよね。いつもそう思ってるんですけど、なんか最近はうまくいかなくって」

ポジティブなのは取り柄だったはずなんですけど。ため息はあふれて止まらない。辛気くせえ、って言うプロシュートさんの声は笑っていて、その優しい響きが私の心を少しだけ潤した気がした。優しい、プロシュートさん。いつだってそう。しんどいなあって思ってここに来るとき、ほとんどの場合彼は気づけば隣にいる。毎日着ているのかと問えばそうではないらしく、だからそれは偶然のはずなんだけど、もしかしたら運命なのかも…なんていうのはちょっと恥ずかしいかな。

気まずくない、居心地の良い沈黙が流れる。プロシュートさんが来る前から飲み続けて、隣に座ってからも何度か空にしたグラスのアルコールは弱くなかったから、もう顔は火照っていて熱かった。冷たいカウンターが頬を冷やすのが気持ちいい。おかわり、って差し出したグラスに入ってきたのが今日何杯目のお酒なのか私にはもうわからなかったけど、それは横から伸びてきた手に奪われて彼が全てのみほしてしまった。

「あー…」
「もうやめとけ、立てなくなるぞ」
「…手遅れだったりして」

酔ってるからだ。力の入らない表情でゆるっと笑って見上げてみたら、プロシュートさんは呆れたように片眉をあげた。あ、今の顔かっこいい。いや、いつだってかっこいいんだけど。酔って速くなってる心臓がより一層ドキリとはねたくらいには、今の表情は魅力的だった。これだけ顔が良ければ人生もきっと楽しいんだろうなあって思って、それから彼がギャングだっていうのを思い出した。人生ってままならないんだね。って思うのは、ギャングになるのが”悪いこと”だって思ってる一般人の私の傲慢なのかな。

「ダメな日ってとことんダメです、こんな、考えなしにのんじゃうなんて…」
「…そういう日もあるだろ」
「どんどんマイナスに傾いていくー…」

さっきの話か、って、いつの間にか手元にあった水のキャップを開けながらプロシュートさんが呟いた。飲めって差し出されたボトルを握る手の力加減がわからなくて、少しだけ溢れて服がぬれる。

「わっ」
「お前なあ…」
「もう、ほんと…ほんとにだめみたいです、私の人生、こんなことばっかりなのかも…」
「おい泣くな、そんな泣くほどのことか?」
「複合的な要因…です、もう…」

一度泣いてしまうと涙って止めるのが難しい。カウンターで泣き出した私に泣くなっていうものの、特別狼狽える様子もないプロシュートさんは女に泣かれるのも慣れてるんだろうか。かっこいいもんなあ。彼女の1人や2人や3人や4人くらいいてもおかしくないもの。情けない、こうして1人夜のバーで泣いてる私とは大違いだ。





ひとしきり泣いて、メイクも落ちて服も濡れて、最悪な状態の私は酔っていて足元もおぼつかなかった。明日の朝には二日酔いによって記憶を失っておきたい。そんなことを、プロシュートさんの背中で考える。ゆらゆらと歩くのに合わせて訪れる振動は眠気を誘って、ほんのり香るのは高級そうな香水のにおいと、その向こうのプロシュートさん自身のにおいが混ざったもので、話す声は体を伝わっていつもとほんの少しだけ違って聞こえる。

「今日だけだからな」
「ありがとうございます…あ、そこ、右です」

なんでおぶってもらってるのか、正直あんまり店を出るころの記憶がない。お金を払った記憶もない。最悪だ。そんな最悪な日なのに、こうして背中の温度を感じているとなんでか幸せになってくる。意味が分からないよね。

「この先、私に良いことはありますかね」
「プラスとマイナスは最終的にゼロになるんだろ?今がマイナスなら、ゼロになるまでの良いことはあるんじゃねーの」

お互いに無言のまま、私の家までたどり着いた。飲んでたバーから徒歩10分、そんなに遠くないけれど深夜に酔って歩くには不安のあるそんな距離にあるアパートの2階、1番奥の部屋。カバンから鍵を取り出せずもたつく私を黙って見下ろして、取り出した鍵を受け取って代わりに鍵をあける。カチリと音が鳴った。

、俺がお前に何かするとか考えないのか?」
「何かって…なにを?」
「…いいか、深夜家に男を連れてくるなんてのは世間知らずのお嬢ちゃんのすることだ」

開こうとした扉にたたきつけられた拳は鋭い音を立てて、私はびくりとはねあがった。アルコールでふんわりしていた脳が一気に覚醒して、目の前にいる男がギャングであることを思い出す。すっと頭の奥が冷えた。

「プロシュート、さん…」
「俺以外の奴にこんなことさせるんじゃねーぞ。いいか、俺は好きでもねぇ女を背負ったりしないし、あのバーに行くのはお前が来てるって連絡がマスターから来た時だけだ」
「え、え?どういうこと…?」
「まだ酔ってんのか?」

混乱して頭が爆発しそうだ。どういうこと、プロシュートさんの言うことがわからない。さっき一瞬だけ見せたギャングの雰囲気は消え去ったから肩の力は抜けたけれど、それでも私はプロシュートさんの言うことがわからない。黙って見上げれば、月明かりが背後からさしているせいでよく見えない表情が笑った、ような気がした。

「隙があり過ぎだ」
「えっ」

頬に一瞬だけ触れた温かい温度が彼の唇だと気づくのに時間はかからず、驚いて叫びそうになった声はちゃんとでなかったのでほとんどかすれた。プロシュートさんは満足げに笑って、ちゃんとベッド入って寝ろよと言いながらアパートの廊下を去って行った。驚きのあまり立ち去る背中を見つめて、カンカンと足音を鳴らして階段を下りるのを聞いて、それからやっと……私は状況を理解した。

廊下から体を乗り出せば歩き去っていくプロシュートさんの背中が見える。ここから叫べば聞こえるだろうか。今が何時とか、近所迷惑とか、そんなことは後から考えればいい。すっと息を吸い込む。

「プロシュートさん!私の人生、いまちょっとだけ…ううん、すっごく、ゼロに近くなりました!」

振り返るかと思ったけれど、プロシュートさんは振り返らなかった。代わりに片手をあげて振って、届いたよって教えてくれる。なんてかっこいいんだろう。
明日から、また頑張ってみようかな。



すべて作戦のうち


(やっと落ちたか?鈍い嬢ちゃんだな)