大切な人の痛みを癒すことができたらどれだけ素敵だろう。もしそんな力があったら。夢みたいな話だ。

右手にぱぱ、左手にまま、大好きな2人と手をつないでぶらぶらとふりまわし街を歩く。私が10歳になった日だった。大好きなアニメの映画をみて、大好きなレストランで大好きなごはんをたべた。ずーっとほしかったくまさんも買ってもらって、おうちに帰ったらままのつくった私がいっちばんに大好きなケーキを食べるの。幸せな一日。だいすきがいっぱいにつまった一日。濃い青い空には白くておおきな雲がもこもこと浮かんでいた。ねえまま、ぱぱ、みてあれ、なんだかうさぎさんみたい。あっちはねこさんかも。かわいいねえ。3人で空を見上げて笑った。

笑い声を切り裂く甲高いブレーキの音が聞こえた。知らない人の悲鳴も。
どんと強く私を突き飛ばした大きな手はきっとぱぱだ。私の名前を叫ぶ高い声はままの。何が起こっているのかわからなくって、ぼんやりと、ただぼんやりと私は尻餅をついてその光景を見つめていた。

お店に突っこんだ車はまっくろな車体をぴかぴかと輝かせ青空を映していた。その青空と対照的に真っ赤な血液が飛び散って、私も道路も車もびちゃびちゃ。発生源はたぶん、ぱぱとまま、だったとおもう、ぐっちゃりとした肉の塊。交通事故だっておもった。突っ込んで来た車がまっすぐ私を目指していたから、気づいたぱぱが突き飛ばしたんだって思った。打ち付けたはずのお尻は痛くなかった。すごく強く押された腕も痛くなかった。
ただ、どうしても胸がむかむかとして私は食べたばかりだっただいすきなごはんを全部吐き出した。知らない誰かが肩をつかむ。大丈夫かい、という声に「大丈夫なわけないじゃない」と言いたかったのに声はでない。大丈夫なわけが、ないじゃない。今日は私の誕生日で、大好きなぱぱとままと映画を見て、ご飯をたべて、くまさんを買ってもらって、そしてケーキを食べるはずだった天気の良い一日だったんだ。

泣いてると思ったけど泣いてなかった。水の音がするから涙だと思ったのに。それは私の体から滴る返り血だったのかもしれない。


頭がぐらぐらした。意味がわかんない。何が起こったの?なんで?やだ、ぱぱ、まま。少しだけ声が出た。
地面にすわって、血と吐しゃ物にまみれた私とくまさんと、目の前の肉の塊しか見えなかった。肉の塊はちゃんとぱぱとままの形をしているし、ときどきピクリと動く。死んでいないんだって思った。まだ、2人は死んでないって。あと少しだけ、もう少しだけ頑張ってくれたら、きっとお医者様が治してくれる。だからがんばって。

真っ青な空は青くて明るかったのに色彩を失った世界に見えた。いやだよ、ぱぱ、まま、死なないで。死んじゃ嫌。
きっとそのときの私の願いは世界中の何よりも強くて空に届いたんだと思う。ふわりと、あたたかくやさしい空気につつまれた。天使がいるっておもったけど、もしかしたら私が天使だったのかもしれない。真っ白なふわふわの布が幾重にも広がって、白金の長い髪がゆらゆらと揺れて、私にそっくりな声がしゃべった。大切なものを失うかわりに、その2人の傷を治してあげる力がわたしにはあるわ、って、そう言うのと治すって決意するのは同時だったよ。あたたかいなって思った。優しくてあったかくて、真っ白に明るいのに眩しくなくって、不思議な気持ちになった。

その光がゆっくりと消えていったあと、ごしごしと目をこすってしまうような出来事が起こったんだ。ぐちゃぐちゃに折れ曲がっていたぱぱとままが、うめき声をあげて目を覚ました。タンカをもってきた救急隊の人も驚く光景で、私は泣きながら駆け寄った。

ぱぱ、まま。状況が飲み込めていない様子のぱぱとままは私を見てきょとんとして、口を開いた。


「誰?」


絶望から一転希望の光を浴びて、そして再び突き落すのに十分だった。

天使は言う。傷を治すにはとてつもない代償を伴うのだと。
命を落とすだけの怪我を治すのであれば、一緒に生きてきた10年間すべての記憶を失うほどの代償が必要だった。

なるほどな、と、10歳の頭には少し難しいことを飲み込んだ。つまり、ぱぱとままは命を繋いだ代わりに私のことをきれいさっぱり忘れてしまったらしい。ショックだったし、受け入れ難かったし、泣き叫びたかった。けれど、記憶からなくなってしまったって、私がまったく見ず知らずの子どもだって、ぱぱとままは優しかった。血と吐しゃ物にまみれた私を心配してくれた。大丈夫か、怪我をしているんじゃないのか。自分たちの方が重傷なのにね。見ず知らずの私に、泣かないで、怖くないわよ、もう大丈夫よ、と声をかけながら、ままの優しい手が背中を擦った。なんて優しくてあったかいんだろう。傷をいやす光よりずっとずっとあたたかい。このぬくもりを、優しさを浴びるのは最後になるんだろうか。涙がとまらなかった。それでも、こんなに優しくて愛しい2人が生きているならそれで良いって、必死に思い込みたかった。頑張れ私、大丈夫だ。ぱぱとままが、生きてるだけで十分じゃないか。

念のためにと、病院へ連れて行かれるぱぱとままを見送った。もうこれで、さよならなのかな。

幸せな一日だったんだけど、なんだかあっという間に、私のぱぱとままはいなくなって、帰るおうちだってなくなってしまった。