※血縁
※年齢設定がある



一人で祝う誕生日にもすっかり慣れっこだ。父さん、母さん、兄さん、久しぶりだね。慣れっこだけど、やっぱり少しだけ寂しい。寂しいから、つい毎年ここへ来てしまうの。三人分の名前が刻まれた石にどれだけの意味があるのかわからないけど、手を合わせて祈れる場所はここしかないから。

わたしもう二十九になったよ。来年で三十。大きくなったでしょ。

成人してすぐに両親が事故で死んだ。相手側に百パーセントの過失のある事故で向こうは無傷だった。こっちは即死。理不尽だなあ。貧しいながらも兄妹を成人まで育ててくれた両親に、これからはわたしも働いて家計を支えていくからねって約束してすぐのことだった。金持ち息子の無謀運転に巻き込まれて死んでしまうなんて、あっていいはずがなかったのに。
世の中不平等だね、兄さん。泣いて暮らすわたしのことを辛抱強く慰めてくれた兄さんは物腰が柔らかく穏やかなひとで、彼は涙を流さなかった。わたしの方が取り乱して泣いていたから我慢してくれたのかもしれない。

「そうだね、こんな世の中間違ってる」
「うん、せめてちゃんと罰を受けてほしいのに、お金もちだからそれすら免除されて」
「……そう、それがさ、許せないよなあ」
「……兄さん?」

低い声は柔らかく響いて、いつだってわたしを安心させてくれる。けれどその時の兄さんの声は空気を切り裂いてしまいそうなくらいに鋭くて冷たかった。思わずぞっとしたほど。顔をあげて噛みあった視線の先、兄さんはいつもどおり柔らかく笑っていたけれど、どこかぎこちなく感じた違和感は本物だったのだと翌朝知ることになる。

目が覚めると兄さんはいなかった。それきりだ。どこで何をしているのかもわからない。ニュースで、お金を積んで釈放された例の男が惨殺されて見つかったという報道があって心臓がとまるかと思った。……わたしは、兄さんがどうして突然いなくなってしまったのか、行方をくらませて何をしたのか、それ以上考えることをやめた。



来年で、あれから十年になる。一人で暮らした二十代の間、いろんなことがあったな。恋人ができたこともあったんだよ。けれど家族になることを考えると怖くなってしまって、結論を出せないわたしに呆れ果てて去って行った。もうこのまま一人で生きていくしかないのかもしれないなんて思う。そんなことないといいのだけど。何度失ったって、きっと人は人を愛することをやめられない。そのあたたかさを知っているから、何度だって求めてしまうだろう。もう一度愛に手を伸ばすのがいつになるのかわからない、それだけだ。

「……でも、心配しないでね。いまのところ、一人でもまあまあ幸せに生きてるから」

こんな風にしんみりしてしまうのは一年のうちたった一日、今日だけ。二十年間、毎年お祝いをしてくれていた記憶の強く残るこの日だけはどうしても一人になるのが嫌になる。けど、それも来年で区切りにしようか。できたらいい。だってわたしは大人なのだから。

少しだけ遅い夕焼けの時間に、街へ出て花束を買った。わたしに似合うと淡いピンク色の花を多めにさしてくれた店主の息子が、最後にもじもじとうつむきながら一輪の赤い薔薇を差し出す。

「この一本は、俺から」大輪の赤色なのに脇に控えめに添えられたそれを愛おしいと思った。その赤色は彼の頬と同じ色をしている。だからとびきりの笑顔で返すことにした。

「ありがとう」
「えっと、暗いから、帰りは気を付けて」
「うん。じゃあ、また」

赤い薔薇の他にもう一つ添えられた、メッセージカードのことは気づいていたけれど言わないでおいた。こっそりさしたということは、帰ってから読んで欲しいのだろう。そこには何が書いてあるのかな。どこか想像のつくそれに、わたしはなんて返事を返すのだろう。

例年憂鬱な誕生日が、少しだけキラキラした気がした。駈け出したい気持ちを押さえて、それでも弾む足取りで自宅を目指す。去年より良い日だった。この花束の香りがなくなるころには、もしかしたらわたしは一人ではなくなって、もっとよい来年の誕生日を迎える覚悟ができるかもしれない。

なんて、それは飛躍しすぎた考えかな?

くすくすと笑いながら歩いていた。暗い小道を曲がったらわたしのお家が見える。両親と兄さんと暮らしていた家は小さいけれどかわいい造りでわたしの大切な場所だ。

……その前に、人影があった。はっと息をのむ。

誰だろう。こんな時間に。街灯もない静かな場所。街からも少し距離がある。そんなところで、わたしに用事のある人なんかいるかしら。街に戻って人を呼ぶか、それとも……気づかれないよう、裏口にこっそりと回り込んで静かに過ごすか。そんな選択肢を思い浮かべながらも、わたしはそろそろと家に近づいた。

……近づいて、背中が大きくなって、……やがてシルエットもはっきりして月明かりに照らされた横顔が見えたとき、わたしの心に湧き上がった気持ちをどう表現したらいいだろう?

「……にいさん?」
「……ああ、……大きくなったな、

柔らかな発声は記憶にあるよりどこかぎこちない。こんな話し方をするひとだったっけ。思い出そうとしても、出て行ってしまった兄さんのことで最初に忘れてしまったのは声だったからわからなかった。どんな声で、どんな話し方をして、それからどんな風に笑っていたのか。そういうことを、いなくなってしまってから少しずつ忘れてしまって、それがわたしはとても寂しくて、それから怒りのような感情も抱いた。父さんも母さんもいなくなったのに兄さんまで、って、そんな子どもみたいなことを思っていたんだよ。

「そりゃあ、もうすぐ、十年になるから……」
「……そうか、もうそんなに……」

ああ、でもやっぱりそうだ。柔らかさのなかにあるたどたどしさ、それは舌先に光るピアスだけで説明できるような違和感ではない気がする。兄さんの身体に何かあったのだろうと察するには、その話し方だけで十分だ。

「どうしてたの? ずっと、わたしのこと一人で置いていって……、何があったの?」
「話せば長くなるんだが……、入っても?」
「あ、うん……そりゃあもちろん、兄さんの家でもあるんだから」

夜空の下は少し肌寒い。冷たい風が吹くたびに少しだけ震えてしまう。わたしは兄さんの横を通り抜けて、カチリと鍵を開いた。どうぞ、と招き入れるように扉を大きく開く。閉め切っていた家の中の空気は外よりも少しだけあたたかく身体を包み込んでくれた。
十年も経ったけれど、それでもいつか帰って来るのではないかと思って何ひとつ片づけられなかったの。父さんと母さんがいたことも忘れたくなくて、忘れることが怖くて。だからここは、兄さんが出て行ってしまったあの日のまま、時間がとまったように見えるかもしれないね。
吹っ切れたつもりで、諦めたつもりで、全然そんなことできていない未練の塊のような部屋だ。そんな部屋を兄さんはぐるりと見回して、「変わらないな」と呟いた。懐かしそうに細められた瞳の色が電球に照らされて明るい緑色に光る。

「昨日の余りだけど、スープがあるの。あっためて食べようか。それとパンと、……あ、ケーキもあるんだよ。昨日街のひとにもらって、ほら、わたし今日、」
「誕生日だったな。二十九の」

机に花束を横たえてキッチンへ向かおうとしたわたしはピタリと足を止めた。まさか覚えているなんて思わなくて。たとえ血のつながった妹だろうと、十年も会っていない妹だ。誕生日なんて生まれてきただけの一日にすぎないと、兄さんはすっかり忘れてしまっただろうと思ったこともある。……それなのに。

「覚えてたの?」
「当たり前だろ? 妹の誕生日を忘れる兄がどこにいるんだよ」

兄さんの席だった場所。イスを引いて座って、肘をついておかしそうに笑う顔は大人みたいだ。我が兄ながら顔が良い。……そのことになぜか無性に照れてしまって、素直に向き合ってお話しできなかった時期も昔はあったなと思い出す。

「……いや、今のは俺が悪いな。これだけ長いこと連絡も取らず会いにすら来なかったら忘れたと思うのも無理ないか」
「そうだよ、こんなに長く、ずっと」

ちゃんとわかるように、いなかった間のこと説明してくれないと納得しないから。その意思を込めて少し強めに返事をしたら、兄さんはおかしそうにくすくすと笑った。もう、……笑いごとじゃないんだけどな!?

「ああ、それ。そこのさ」
「メローネが、どうかしたの?」

細身でもやっぱり男性なんだな、と思わせる大きな手が持ち上がって、バスケットに入った果物を指さした。そのフルーツの盛り合わせも昨日届いた贈り物だ。ああ、こうしてみると、わたしは思ったよりも街の人と仲良くやっていて、誕生日を祝われて、……しあわせに生きてこられてるんじゃないかって自覚できる。

「それがさ、俺の名前だったんだ」
「えっ、メローネ? メローネが名前?」
「うん、そう。そう呼ばれてた」
「それはまた……、どうして、」

そんな突飛な、果物の名前で呼ばれるなんてどうかしてる。それが名前ってどういうことなんだろう。困惑に揺れるわたしを楽しそうに見ている兄さんは、まるで何かを懐かしむようだ。
それはわたしのことなのか、それとも兄さんを”メローネ”と呼ぶ人たちのことなのかはわからない。

「他にも仲間がいてさ。リゾット、ホルマジオ、プロシュート、ペッシ、ギアッチョにソルベにジェラート……」
「ふふ、なにそれ。ちょっと被ってるじゃない?」
「そうなんだよ、おかしいだろ? それからもう一人、全部で9人の仲間がいてさ」
「……のこりの一人は?」
「なんだとおもう?」
「え、えー……、メーラ? うーん、リモーネ……ペスカとか」

兄さんはずっと楽しそうににこにこしていたけれど、ついに耐え切れないと言うように噴き出した。

「あはは、全部ハズレ」
「もう、答えは何なの?」
「イルーゾォ」
「イル……、えぇ……」
「おかしいだろ?」

それが嘘なのか本当なのかわたしにはわからないけれど、そんな話をする兄さんは心の底から楽しそうに笑うのでそれだけでわたしには十分だった。一緒にいられなかった九年間、……きっとわたしが考えることをやめたあの出来事から今までの間に、もしかしたら薄暗くどんよりとした生活を送っている可能性をずっと考えていたからだ。少なくともそんなことはなかったんじゃないかと、そう思える顔をしていたから。

「ほんとにおかしいよな。今はもう、みんなそんな名前は捨てて元の名前に戻ってる」
「ふうん……?」
「ああ、意味が分からないよな。何から話したらいいか……」

話を聞きながら温めていたスープを器によそって、お皿にのせたパンを出す。木製のテーブルにこんなにたくさんのお皿が乗るのは久しぶりだ。時々お客様を招くこともないわけではなかったけれどそれも随分と前の話。
兄さんの正面のイスを引いて座って、まっすぐに見つめなおした顔はただ喜びだけを浮かべているわけではなかった。わたしとそっくりな緑色の奥にどんな感情が浮かんでいるのか、その複雑さを読み取ってあげることはできない。それでも、兄さんがちゃんとお話ししてくれれば、その全部をちゃんと受け止める覚悟はできているよ。

「そうだな、話せばとても長くなる。俺のことを許せないと思うかもしれないし、この家から出て行ってほしいと思うかも」

そう言って手を合わせてスープを掬う手がほんの少しだけ震えているように見えた。わたしがひとりでさみしいなんて言いながらもあたたかい家で暮らし、街の人と交流して過ごした九年間、いったいこの人はどんなことを抱えて生きて来たのだろう。

「それでも、聞かせて」
「……うん。あ、そうだ、
「なに?」

ちぎったパンを口に運ぼうとしたら名前を呼ばれたから、手を止めて顔を上げる。

「言い忘れてた。ただいま」

――ああ、どんな話をされたって大丈夫。
すっかり塩味のパンも、しょっぱいスープも、兄さんと一緒ならなんだって美味しいって思えるから。



とんでもない作り話のような壮大な物語を聞きながら、わたしは笑ったり怒ったり泣いたり心配したり少しだけ兄さんを軽蔑したりやっぱり赦したりしたけれど、聞き終わるころには本人が”汚れている”と称した両手をそっと握った。部屋は暖かいはずなのに、温かいスープを飲んだはずなのに、その手がひんやりと冷たいことが、この話をすることがどれだけ怖かったのかわかって愛おしかった。

「わたしもね、兄さんに聞いてほしい話がいっぱいあるの。聞いてくれる?」
「ああ、聞かせてくれるなら」
「それからね、紹介したい人もいるんだ。もし兄さんがゆるしてくれるなら、だけど……、」
「……その、カードの男?」

兄さんの視線が花束に刺さって、少しだけ拗ねたような声色になる。それがおかしくて笑ったら、「笑うなよ、兄心は複雑なんだぞ」なんて、九年間も放っておいた妹によく言うわねってセリフをこぼすからもっと笑った。

「うん。彼とっても良い人で、兄さんがいないわたしのこといつも気にかけてくれて、……ああでも、それよりもっとお話ししたいこともたくさんあるの。あ、もうこんな時間? 寝ないと明日の……ああ、でも」

全然、出てくる言葉がまとまらないの。そんな焦るわたしを見て兄さんはにっこりと目を細めて、「時間はいくらでもあるんだから、ゆっくりでいいさ」とわたしの頭を撫でた。そっか、兄さんはもうずっとここにいられるんだ。また家族として、ふたりで暮らしていけるんだ。父さんも母さんもいなくても、兄さんはずっと。……うれしいなあ。

「あ、あのね、兄さん。わたしも言い忘れてた」
「なに?」
「おかえりなさい。ずっと、待ってたよ」

……両親が死んだときにすら泣かなかったから、わたしは、その時初めて兄さんの涙を見たの。