どうやったって超えることのできない高い壁があった。壁の向こうの世界がどんなものかわたしは知らない。ただまっすぐに見上げた空は真っ青に透き通っているから、きっと壁の向こうの空も同じように真っ青なのだろうということは想像がついた。綺麗なあおいろだ。透けて見えそうなくらいに綺麗。
――空が透けてみえたら、その向こうには何が見えるんだろう。
空の向こうって何があるの? その質問にまともに取り合ってくれるおとなはいなかったけれど、わたしのたった一人の友人はわたしの隣で「そうだなあ」と一緒に答えを考えてくれた。

「空というものの定義がそもそもあいまいだ。空って何だ? 今の話でいうとあの青い部分か? じゃあ曇りの日は空はないってことになる。そんなことはないだろ?」
「えっと、曇りの日には、空は透き通るのをやめて石ころみたいなグレイになるの。どんより真っ黒なこともあるけど……」
「じゃあ空の向こう側にあるものは、青空の日にしか見えないものだ」
「……透き通っているはずなのに、青空の日がいちばん何も見えない気がする」
「ほんとに?」
「うん、ううん……、だって今日は雲だってひとつもないし。本当になんにもなくって、ただ眩し……あ、あった! あったわメローネ、青空の日にだけ見えるもの、太陽だ!」
「正解」

青い空の下、鮮やかな緑色の草むらに手をついて座るメローネが少し眩しそうに目を細めてわたしを見ていた。きらきらと光る金糸も透けてしまいそうだと思う。その長さは「男らしくない」とここの大人たちには不評なのだけど、日ごろの行いが良く成績も良いメローネは不問にされる。一方のわたしは出来が悪くて何をしてもうまくできないから、大人たちはわたしのことをいじめることが多かった。
……ここの大人たちは、わたしたちをオモチャだと思っている。わけあって捨てられた子供たちを引き取り養育する施設だと表向きは謳われているけれど、実際のところ職員に呼び出されたきり戻らない子が今月だけで何人いたことか。こんな出来の悪いわたしがこの歳までここで生きてこられたのは、間違いなくメローネがいつも隣にいてくれるからだった。
ことあるごとに表にでて「この施設がいかに良いところで、子供たちはどれだけ立派に育っているか」をアピールする道具のメローネのご機嫌はとれるだけとっておかねばならない。だからメローネのお気に入りのわたしのことも、メローネのご機嫌のためには丁寧に扱わなければならない。

「メローネはやっぱり頭がいいなあ」
「そんなことないさ。俺が本当に頭が良ければ、今頃こんなところ抜け出してもっと自由に生きてる」
「……メローネひとりなら、できそうなのに」
「君を置いて? そんなのごめんだ」

立ち上がって空を見つめていたわたしは地面に座るメローネをずっと高い位置から見下ろしていたけど、それでもメローネの方がずうっと大きくみえた。優しくて頼りになる、頭の良いメローネ。ひとりならきっと、もっと早くここを出ていけたのだと思う。
それをしない理由がわたしなら、なんて嬉しくて、罪深いことだろう。メローネの足かせであることを喜んでいるわたしは悪い子だね。

だからきっと、バチがあたったの。

「……出て行くの、メローネ」
「ああ。ごめんな」

申し訳なさそうに屈んでそういうメローネの瞳は悲しげだった。仕方がない。わかっているけれど喉の奥に張り付いて言葉がうまくでてこなかった。ヒリヒリする。のどがヒリヒリして痛くなる。震える。泣きそうなんだってわかったけれど、メローネがいなくなるのに泣きじゃくってはわたしなんかただのサンドバックだ。今まで手を出せなかった分何をされるかわかったものじゃない。こらえないと。そう思えば思うほど、頭で考えるのとは別に身体が動いてしまう。涙がでてきてしまう。寂しくて悲しいのと同時に、メローネに護られなくなることが怖くて怖くて仕方がない。

「ど、して」
「わかってただろ。俺もう十八だから、ここから出て行かないといけないんだ」
「そんなの聞いてない、なんで、いなくなっちゃうの」
「仕方ないだろ。……ああもう、泣くなよ……」
「泣いて、ない……」

泣いてるじゃん。困ったみたいな顔のまま少しだけわらって、メローネはわたしの涙を拭った。知ってるけど、でもわたしが一人ここに置いていかれるということを考えたことがなかったの。考えないようにしてた。そんな未来一生こなければいいと思ってた。メローネくらいのお気に入りならここにずっといることもできたかもしれないでしょ。それが難しくても、わたしのことを一緒に連れて行くこともできたかもしれない。しれないのに、……そう、しようとはしてくれなかったの。

「メローネ、やだ」
「やだって言われても、……ああ、そうだな」

しゃがんで、目線を合わせて。わたしのたった一人の友人で、それから守ってくれる保護者みたいなひとだったメローネは、内緒話をするように小さな声で囁いた。

「絶対に内緒にできるかい?」
「う、うん、なあに」
「じゃあ、もう返事をしないで。今夜、22時になったらこっそり抜け出すんだ。裏庭の、塀に一番近い大きな木があるだろ。何があっても、どんなことが起こっても、決して声を上げず動かずそこにいるんだ。本当に、どんなことがあっても絶対にそこにいて。……できる?」

真剣なグリーンの瞳の奥に燃えて見える赤色が、憎しみとか怒りだったこと。その時のわたしにはわからなかったけど、今は……痛いほどにわかる。思い返すだけであの激情が伝わるようだ。
無言で何度も頷いたわたしの頭を撫でてメローネが立ち上がる。もういいか、と声をかけてメローネを連れていたのは、大きなメローネよりもさらにずうっと大きな銀色の髪の男のひとだった。

そして夜、約束の通りに木の下でうずくまった私がみたものは。真っ赤に燃え上がる施設と助けを呼ぶ声。助けに駆けつけた村人が子どもたち、そして職員たちを必死に救出しようとするのもむなしく、窓ガラスは高音で割れ上階の窓から逃げようと飛び降りたひとは地面に崩れ落ちてひしゃげて動かなくなった。絵本で読んだ地獄のよう。それか映画のワンシーン。
もしいつものところでずっと寝ていたら、その場所は一番最初に火の手が上がった部屋だったから……、わたしはきっと死んでいたのだろう。怒声と悲鳴、頭が割れそうに痛む光景をどれだけ見つめていたかわからなかったけど、わたしは約束をまもってずっとそこにいた。この庭には不思議と火の手が回らないどころかどこか涼しさまで漂っていて、逃げてくる人もどうしてかこの庭には入ってこない。ガラス一枚を隔てて、あちらとこちらの世界は全く別物なんじゃないかと思うくらい、どこか現実味のない時間だった。
やがて建物がだいたいのかたちすら保てなくなって崩れ落ちはじめる。高い塔が焼け落ちた衝撃で地面が揺れる。それでも、火の粉も煙もこちらへはこない。……どうなっているんだろう。足を進めてみたくなる気持ちを押さえつけてじっと待ってた。
――そうしたら。ふいに、ぽん、と肩に手がのった。悲鳴を上げたと思うけれど、炎の勢いがかき消してくれたと思う。誰にも気づかれなかっただろう。飛びのいて振り返ったそこにいたのは、……ああ、待ってたよ。昼前に施設を出た、メローネだった。

「約束、まもれて偉かったね」
「う、うん。……あの、メローネ、これって」
「偶然だよ。自然発火の火事なんて運が悪いな。でも君は運が良い。たまたま庭に出ていて助かった」

それはメローネが、と言おうとした唇を指が塞ぐ。内緒だよ、と言われたことをおもいだしてはっと黙り込む。くすりと笑うメローネは見たことのない服を着ていて、それから見たことのないマスクで顔を覆っている。それでもわたしの知っているメローネの、優しく包み込んでくれるような優しさはそこにある。

「さて、施設は燃えてしまった。職員も大方が死んだ。子どもたちはほぼ逃がせたはずだけれど……どうかな。一部はダメだったかもしれない」
「そ、うなの」
「でも君は助かった。君はおれのお気に入りで大切な存在だ。帰る家のなくなった君をおれの新しい家に連れ帰ることは、ごく自然なことだろうね」
「メローネ、じゃあ、」
「うん。準備に少し時間がかかってしまったけど……、受け入れてくれるって話はついてる。一緒に来るかい? まあ、嫌って言っても連れて行くつもりだけ、どっ」
「うれしい!」

言い切る前に勢いをつけて抱き着いたから、メローネが少し苦しそうな声をだした。それでも抱きしめ返して、それからまるでわたしが大事な宝物みたいにそっと抱き上げて、距離の近いかおが「かえろう」って言ってくれる。
このあとどこへ行くのか、そこがどんなところなのか、……なんにも知らない顔をしてついていくけれど、わたしはメローネの背後に控えた、まるで殺し屋のような鋭い目をした男の人たちがいることをちゃんと理解していた。