ここは小さな村だ。村人はみんな顔見知りで家族のように近況を報告し助け合い、仲良く細々と暮らしている。大きなお店も鉄道もなんにもない、そんな村だから不便なことも多いけれど、それなりに仲良くやっていた。

村外れに、村人の輪に加わらない変わり者の医者がいる。細くて金色の髪の毛の一番長いところは腰のあたりまで伸びているけれど、反対側は肩より少し下くらい。アシンメトリーな髪型の奇抜さに気づくのが彼に出会って3度目の時だったのは、それよりも印象的な、目元のほとんどを隠しているマスクのせいだ。「顔がみえないと不安かい?」そう舌足らずに言って先生は笑った。「昔事故にあってね。滑舌も悪いだろ?これはその時の傷を隠してるんだ」細い指をマスクの下にひっかけて少しだけ持ち上げて、やっぱり先生は笑った。白衣の下はぴったりした真っ黒な衣服を身に着けていて、すらりと細い身体のラインがはっきりと見えている。その風変わりな出で立ちといつも一人でいるところはちょっぴり彼を浮かせていて、「あの先生、腕は確かなんだけど変わってるからなあ」というのが村人の共通の認識だった。

それでも、こんな辺境の地にいてくれる医者というのはありがたいものだ。彼がここにくるまでは、病院にかかるときは船に乗って海を渡り向こうの島まで行っていた。ほんの少しくらいなら我慢してしまって、結局体を完全に壊してしまうような人だって多かった。だから、こんなにも腕の良い医者が突然どうしてこんなところにきたのか、村人はそれを追求しようとはしなかった。

「先生、おはようございます。今日は良いお天気ですね」
「んん…、おはよう。今日も来てくれたのか」
「明日も来ますって、毎日言ってるじゃありませんか」
「そうだったかな…」

診療所に決まった営業時間はない。先生が起きている間であればいつだって診てくれる。ふわ、と気の抜けたあくびをしてコーヒーカップを傾けている先生もあと10分もすれば覚醒するだろう。朝にはあんまり強くないらしく、寝起きはこうしてふわふわと過ごしているというのは今のところ村人の中で私だけが知っている先生の秘密だった。

「私もいただいていいですか?」
「ああ、まだ入ってるよ。あ、でも牛乳の賞味期限が切れてるから、それは飲まないほうがいい」
「え、先生また期限切れ飲んじゃったんですか?もう、またお腹壊しちゃいますよ。あとで買ってきます」
「悪いな」
「いえいえ。他にも必要なものがあれば書き出しておいてくださいね、ついでですから」

勝手知ったる先生の家。先生は寝ぼけていてもコーヒーを淹れるのがうまかった。いつだってちょうどよく美味しいそれは牛乳を入れた方がもっと美味しくいただけるのだけど、私はやめておこう。いつの間にか私専用になっているカップに注いで先生の正面に座る。眠たそうな瞳はマスクと髪の毛に隠されて片方だけしか見えないけれど、さっきより少しぱっちりしている。そろそろお目覚めの時間かな。

「先週来たパン屋のおじさん、もうすっかり良くなったからお礼にパンをくださるって言ってました。お昼はそれにしましょう」
「あのじいさんはすぐに無理をする。今度からもっと早く来るように言っといてくれよ」

先生は患者とあまりコミュニケーションをとらないから、こうして私をメッセンジャーにする。そんなこと自分でおっしゃればいいのに、そうしないのは何故だろう。苦手というわけでもないだろうに、けれど、その意思疎通の間に挟まれることはいつだって不愉快ではなかった。

立ち上がってコーヒーカップを洗った先生は、ぐっと伸びをしてグリーントルマリンの瞳を開いた。ぱちりと目覚めたその目はもうお仕事ができる先生の目だ。私もはやくコーヒーを飲んでお使いに出かけなくては。

「これを頼めるかい?」
「はい、任せてください」
「頼んだよ」

毎日こうして先生の身の回りのことをしているから頼りにされているというのはわかっている。けれどそんな風に言葉にされると、やっぱり少し照れくさくって嬉しくなる。メモを受け取って中身を確認して、先生の家に常駐しているカバンを手に取った。

まだ朝も早いというのに、診療所の外の子供たちがはしゃぐ声が近づいてくる。一人泣いているな、と思って先生を見れば、すっかり医者の顔をして扉を開いた。

「おはよう。どうした?」
「こいつ、ころんでケガしたの!せんせいなおしてあげて」
「おいで。いいかい、医者ってのは怪我を治すことはできないんだ」
「え、どういうこと?」
「痛いのを和らげたり悪くならないようにしたりするのがおれたちの仕事だ。傷を治すのは君自身の力なんだよ」

優しく、やっぱり少し舌足らずに話す先生の言葉に、ひざをすりむいた少年は一生懸命に耳を傾けている。ああやって、子どもにも大人にも怪我でも病気でも変わりなく平等に、誠実に接してくれるのが先生の素敵なところ。さあ、私もでかけよう。診療所をでると付き添いで来た子どもたちが「またねーちゃんここにいる!」なんてからかってくるけれど、そんなことでちっとも照れくさくなったりなんかしない。私は先生に頼りにされている、自称・助手なのだから。

崖から落ちて怪我をして、もう死んでしまうのではという私をたまたま通りかかって助けてくれたのが先生だった。あの時に折れた足も腕もすっかりきれいに治ったけれど、先生がこの島にいなかったらと思うとぞっとしない。あの日は雨が降っていたから、たとえ誰かに見つけてもらえても船は出られず私は助からなかっただろう。

たまたま先生がこの島にいて、たまたま私を見つけてくれた。そんな偶然に助けられたから、私は先生のことを助けたいと思った。一人で診療所を切り盛りするのは大変なのだろうなと、1人暮らしで面倒を見てくれる人がいない私を1つしかないベッドに入院させてくれた先生の生活を見てそう思ったのだ。食事を出したいけど最近食べてないから何もないんだ、とか、作ろうと思ったら鍋がなかった、とか、そんな本当にここで生活しているのか疑わしいことを言ってくる先生のこと、放っておけないじゃない。

だからこれは恩返し。それ以上でも以下でもない、私のことを救ってくれた、優しいメローネ先生への恩返しだ。

ちゃん、これ昨日言ってたパン。メローネ先生によろしくな」
「ありがとう!今度からは無理せずもっと早く診せに来てね?って、先生も言ってたわ」

気を付けるよ!と手を振るおじさんに手を振りかえして、一通りの買い物を終えて診療所への道を歩く。焼き立てのパンは良い香りがして紙袋はあったかい。風はやわらかく吹いていて、花はふわりと香っていて、穏やかな日だ。

「ただいま先生、パンいっぱいもらっちゃいました!食べきれないかもしれませんね…、あれ?」

荷物が多いので裏口から入って声をかける。机にどさりと買い物を置いて、姿が見えない先生を探した。それほど大きくないけれど、居住スペースと診療所を兼ねた建物は部屋数がある。どこ行ったんですかーと声を出しながら歩き回っていると、窓の向こうに先生の姿が見えた。なんだ、外にでてたのか。

先生。声をかけようと、窓に手をかけて動きがとまった。柔らかい風は先生の長い髪を優しく靡かせている。いつもより表情の見えやすい横顔は、遠くできらきらと輝く海を見つめてどこか寂しげだった。その表情はまるで昔の私を見ているよう。母を亡くして、父を亡くして、ひとりぼっちになってしまったころの私を見ているみたいだった。

こんなところに一人で来て、細々と医者をやっている先生がわけありじゃないはずがないって思ってた。先生が抱えてきた”わけ”がその抱え込まれた寂しさなのだとしたら、たとえば、私が一緒に持つことはできないだろうか。その寂しさがどれほどの大きさで、重たさで、先生の心に居座っているのかはわからない。けれどそんな寂しい顔をさせてしまうようなものなら、私と半分こにすることはできないでしょうか。

私は先生に恩返しがしたい自称・助手だ。それ以上でも以下でもない。

先生。メローネ先生のことが好きです。
そんなこと、言えるはずがなかった。


カタン。音を立てて窓を開ける。その音ですでに先生はいつもの表情を作ってこちらを振り向いていた。

「先生!ただいま戻りました!」
「おかえり、

目いっぱいに明るい声で呼びかければ、先生は寂しさを閉じ込めて優しく言って、ゆっくりと歩いて戻ってきた。さあ、焼き立てのパンで美味しいお昼にしよう。先生の寂しさはスープにして一緒に飲み干してしまおう。一緒に過ごすこの時間を、もっとゆっくり抱きしめたかった。



「私がいない間、誰か来ました?」
「あの子のあとに農家の奥さんが来た」
「…ああ!どうでした?もうすぐでしょう」

農家の奥さんは妊娠していてもうすぐ子供が生まれるのだ。先生はそういうのも診られるから、何年か前までは妊婦はもうすぐ生まれるという時期になると船で隣の島へ行かなければならなかった。それは随分なリスクだったから、こうしてここで取り上げられるようになって本当によかったと奥さんはいつも言っている。

「順調だったよ。…元気に、産まれて来ると良いな」
「そうですねえ、私も楽しみです。女の子かな、男の子かな…どっちでもきっと可愛いんでしょうね」

少しはしゃいでしまっただろうか。先生は少しだけ無口になって、何を考えてるのかちょっぴりわかりにくい顔で私を見て小さく笑った。

「あ、そうそう、おじさん、今度からは気を付けるって言ってました。本当でしょうか」
「まあ無理だろうな、ああいうタイプは何度言ったって無理をする」
「ふふ、まるでそういう知り合いがいたみたいな言い方ですね」

何気ない言葉だったけれど、それは先生の心のふにゃふにゃのところを刺激してしまったらしかった。カシャンと音を立ててスプーンを取り落したから、大丈夫ですかと駆け寄って拾い上げる。

パン屋のおじさんはちょっと理屈っぽくて怒りっぽい。言葉尻をとらえてはちくちくと嫌味を言って来たり、具合が悪いのに大丈夫だと言い張ったりする。普段は全然そんなことないのに、いざとなるとちょっと頑固でめんどくさいのだ。そんな知り合いがまるでいたかのような言い方をするから、何の気もなしに言ってしまった。
先生は、視線を伏せて手元を見ている。

「…すみません、変な詮索でした」
「いや、おれの方こそ…」

新しいのお持ちしますね、とキッチンに駆け込んだ。心臓がバクバクしている。人には触れられたくない過去が1つや2つや3つや4つ、いくらでも存在するものだ。うかつにそんなところに踏み込むべきではない。最近心を許されていると思って少し気を抜いていたなと反省する。私は助手だ。自称だけれど。そうやって先生と距離を詰めたいわけではない。ただ、彼の役に立ちたい。そうありたいんだ。

新しいスプーンを持って食卓に戻ると、先生はさっきのことはなかったみたいにパンをちぎってスープに浸していた。スプーンを受け取りグラッツェと、相変わらずの舌足らずで小さく答える。正面に座りなおして、少しだけ気まずくなってしまった気分で無言で食事を再開すると、先生がぽつりと声を出した。

「…昔、この島に来るより前、理屈っぽくてすぐにキレる、そんな…友人がいたんだ。今はもういないけど…」
「…そう、なんですか…?」

先生が自分の過去について話すのは、たぶん初めてだった。きらきら輝く海の、その向こうを見つめていたさっきみたいな寂しげな表情の中に、どこか愛おしげな色が混ざる。

「他にも友人がいて……、全員、もういないんだけど。ほら、事故にあったって言っただろ。それで…」

話そうとしていないけれど、でも吐き出したくなってしまった、そんな小さな声は先生の舌足らずと合わさって聞き取りにくかった。だから手を置いてその話に集中して、一言も聞き漏らさないようにと耳を傾ける。

「……そうだな、たぶん、寂しくなったんだ、おれ。一人になりたくて、でも一人ではいたくなくて、いっそ忘れたくて、でも忘れたくなんかなくて…」

泣いているのかと思うほどに震える声だった。伏せていた瞳が少し持ち上がってまっすぐ私を見る。

「だから…君が来てくれるのは、悪くないと思ってる。…これからもよろしく頼むよ、助手さん」
「………は、い…」

今日はどうしてしまったんだろう。そんならしくもないことを。心境の変化でもあったのか、ほんとうに、いったいどうしてしまったんだろう。嬉しくて、いつもと違うことが少しだけ怖くて、私は小さく返事をして少しだけ頬を染めて、それからいつも通りに食事をして午後の診療をした。

 *

「じゃあ先生、また明日も来ますから」
「ああ、…待ってるよ」

扉の前で、そう言葉を交わして無言になる。
いつもなら先生は、私の言葉に無言で頷くか、頷かないか、そうして扉を閉めて中に戻っていく。私はそれで十分で、拒否されないことに安堵して、暗くなった帰り道を月明かりを頼りに一人で歩くのだ。

それなのに今日は、待ってるだなんて言って、扉を締めずにまだ私の前にいる。どうしたらいいかわからなくて、そのまま帰るのも違う気がして、私はただ戸惑いの表情で先生を見ていた。

「…少しだけいいかい?」
「はい」
「おれ、こわかったんだ」

先生の表情は、私を見下ろしているので暗くて見えない。きっとそれが良いのだろうと、私は無理に顔を見るのをやめた。

「仲間…友人がいたんだけど、みんないなくなった。目が覚めたら病院で、おれは一人になっていて、声だってうまく出せなくなってた。みんなと一緒にいけなかった自分を責めて、恨んで、生きてるのがつらかったけど」

視界に映る先生の手が、ぎゅっと握りこまれた。その声は、その時のつらい気持ちを全部詰め込んで吐き出しているように、聞いている私の心まで揺さぶる。一緒にいきたかった、いけなかった。そんな自分を責める気持ちは、私にもよくわかったから。

「友人が夢にでたんだよ。”うじうじしてんじゃねえ、てめーはへらへら笑ってのんきに生きてろ”ってね。だからおれはこの島に来たんだ」

ふらりと船にのって、着の身着のまま訪れたのがたまたまこの島だったのだという。そんな奇跡みたいな偶然で出会えたのなら、何に感謝したらいいだろう。

「人と関わるのがこわかったんだ。また誰かを大切に思って、その人を失ってしまったら、今度こそ生きて行けないと思った。それなのに君はずけずけと遠慮もなく押しかけてきて…、恩返しだなんだって言って、俺の心の中に、窓ガラスを蹴破って入ってきたようなものじゃないか」
「…ごめんなさい…?」

言葉は責めているのに、声は笑っていた。握りしめられていた拳はいつの間にか開いていて、代わりに私の手を握った。

「謝る必要なんかない。ただ、君があまりにも一生懸命に先生、先生っておれを呼ぶから…、もう一度信じてみようって思ったんだ」

あいつらもそうしろって、と囁くように呟いたのは、きっと先生の友人の、キレやすいお方なのかしら?って私は思った。ずっと遠く、すぐには会えないところにいても、きっとここまで先生が彼らを思うのなら、彼らだって先生を思っているだろうから。大事なことなら伝わるだろう。

痛いくらいに私の両手を握る先生の手は震えているから、ここまで言ってくれた先生に応えないなんて、そんなのは女じゃないね。大好きだったお父さんも、大好きだったお母さんも、私を置いていなくなった。私だってこわかった。先生に好きだと伝えて、それが受け入れられないこと。いつかいなくなってしまうこと。…でも、先生が信じてくれる私のこと、私はもう一度信じてみよう。

「先生、わたし、先生のことが好きです」

きらりと流れ星が降って、暗かった先生の表情を一瞬だけ照らした。
少しだけ赤くて泣き出しそうな、先生の心に触れてみてもいいでしょうか。