なんで部屋に階段があるの、と問えば、は「できてからのお楽しみ」と言って楽しそうに笑った。

は、俺とは全然違う表社会で生きる一般人の女の子で、イタリアに移住してきた日本人だ。日本って治安がいいんだろ。わざわざ南イタリアに来るなんて物好きな奴だな、って思った。人種の違いでお世辞にもスタイルが良いとは言えないし、はっきりした顔立ちをしているわけでもないけれど、だからって背中を丸めたりせず堂々と街を歩く美しい姿勢とつややかな黒髪、それから真っ黒な目に惹かれて、気づけば仕事なんか抜きにして声をかけていた。あの時の俺は母体を探しているところだったから母体にしたいと思ってしまう可能性だって十分にあったはずなので、それをしなかった自分のことをほめてあげたい。だってあの時殺してしまっていたら、俺はこんなにも深く他人を愛する気持ちなんて、知らないで一生を終えていただろうから。

「メローネ、落とさないでね。大事に扱って」
「うん、…なんだこれ、怖くないか?」
「雛人形っていうの。日本のお人形」

人形と言えばもう少し大きくて、金色のふわふわの髪の毛に青い瞳。そういうのを想像するけれど、の手から俺の手に渡されるそれは真っ白な顔に細い目、赤くちょんと描かれた唇と、それから特徴的な黒い髪をして、色鮮やかな服を何枚も着ている、そういう奴だ。見たことのない人形に俺が戸惑っていると、はおかしそうに、そして楽しそうに笑った。

「メローネには言ったっけ?私、両親が死んで、日本にあるものは全部捨ててイタリアに来たの」
「ああ、聞いたよ。家も何もかも、だろ?」
「うん。でもね、これだけは持ってきたんだ」

俺が両手で恐る恐る受け止めた人形から手を離して、もう1つの箱を開ける。それは同じテイストで作られた男の人形だった。もしかして、ここにある箱すべてに同じ人形が入っているんだろうか。そんなに大量になると、ちょっと怖いかもしれない。メローネにとって恐怖というのは親しみのある感情ではなかったけれど、得体のしれない人形っていうのはなぜか恐怖を植え付ける。

はこういうのが好きなのか?」
「ん?うーん、お人形って言ったら、フランス人形とかの方が好きだよ。パッと見て可愛いなっておもうようなやつ」
「じゃあなんでこんなの、」

失言かと思ってはっとした。しかしは気にしていないように首を傾げたのでほっとする。どんな理由であれ、唯一日本から持ってきたそれに特別な思い入れがないわけがないのだから、こんなの、なんて言葉の選び方は不適切だ。

「雛祭りっていうね、女の子の健やかな成長を祈る日があるの」
「…ふうん?」
「お人形の顔は怖いかもしれないけど、鮮やかで綺麗でしょ。女の子はお人形遊びが好きだから、そういうのにかけて鮮やかな飾りものとして、あとは一生分の悪いことの身代わりとして、とか、説はいろいろとあるみたいだけど…とにかく、そういうやつなの」
「クリスマスツリーみたいなものかな」
「行事のシンボルとして、なら、そんな認識でも間違いじゃないと思う。特に意味なく飾ってるって人もいると思うよ」

に言われて、手に持っていた人形、これは「女雛」というらしいのだけど、その人を階段の1番上の向かって右側に置く。ということはその隣の台座にはがもっている男の人形、「男雛」を置くんだろう。この2人はいわゆる王様と女王様のようなものだそうだ。
有名な歌の歌詞のせいで、女雛をお雛様、男雛をお内裏様、と呼ぶっていう勘違いが広まっていて、そう呼ぶ人も多いんだよ。とは言った。

「日本で捨ててきたものは、全部ただの物だった。物は物でしかないから捨てられた。けどね、これは私の母が私にくれたもので、母は自分の母にこれをもらったの。最初にこれを買ってもらった人が誰なのか、わからないくらいに古いもの」
「歴史があるんだな」
「うん。私が所有している物というより、この子たちは私につながる今までの歴史そのものだと思ったの。だから捨てられなくって持ってきた」

もう1つ、取り出された女の人形の服には少しほつれたのを繕ったようなあとがあった。良く見てみれば、確かに少し古く、傷んだ感じがする。丁寧に扱わねばと思うと少し緊張してしまって、そうしたら突然、自分がこれらに触れていることに罪悪感が湧き上がった。

「これは三人官女。…お城に仕えてる人、かな」
「こいつらは?」
「それは五人囃子、3段目に並べてね。音楽隊みたいな人たちだよ」

の指示通りに人形や飾りを並べると、殺風景だった階段は鮮やかに彩られた。1体1体を眺めると少し気味が悪いと思った人形も、こうしてみればとても美しい。アジア人特有の童顔でメローネより年上なのにずっと年下に見えるだけど、嬉しそうに目を細める今の表情はなんだか見たことがないくらいに大人びていて、きっと人形の向こうに、今まで自分につながってきた歴史を見ているんだろう。

この人形たちはの母親からへ、その母親へはさらにの祖母から、代々受け継がれてきたらしい。それなら、はきっとこの先、この人形を自分の子どもに託していくべきだ。それは子どもを産むということで、今最もそのパートナーとして近い位置にいるのは自分だろう。ギャングであることも、その中でも特に裏の裏、殺しの仕事をしていることも全て隠して、フリーのライターをやっているんだ、なんて言っている自分。親に愛されて育ってきて、この先の未来を信じて疑わない彼女に、こんなにふさわしくない男がいるだろうか。

「私もね、いずれ自分の子どもに…、メローネ、どうしたの?」
「何が?」
「泣いて、るかと思った…けど、見間違いみたいね」
「俺が?そんなまさか」

だよね、と言って笑うを笑ったけど、内心は冷や汗をかいた。暗い顔をしていたか、泣きそうな顔をしていたか、自分の表情なんて気にしていなかったけど、考えていたことは絶対に漏れだしちゃいけないことだったから。

のことを手放したくはないけれど、の未来は繋いであげたい。それは俺じゃあできないことだ。

「この…雛祭りってね、3月3日なのよ」
「2週間も先じゃないか」
「こんなに綺麗なのに、当日だけ飾るんじゃもったいないでしょ?」

確かにそれはそうだ。飾り付けにも結構時間がかかったし、は全部覚えているようだったけど年に1度しか出さないのであればどれをどこに飾るのかわからなくなることもあるだろう。

「当日まで飾って、3日の夜には片付けるんだよ」
「そのあとも飾っておけばいいのに」
「雛人形はねえ」

顎に手をあてて、は少し考え込んだ。雛人形は、なんなんだろう。女の子の、の人生の悪いことを身代わりに受けてくれるらしいこの人形たちは、俺が触れた分のの穢れも綺麗にしてくれるんだろうか。この血で汚れた両手で段に飾られることを、どう思ったのだろう。
はまだ考え込んでいて、その頬が少し赤い、ように見えた。別に言いにくいことなら言わなくたっていいんだ。そう言おうとしたら、が視線をこっちに向けた。真っ黒で大きな瞳が俺を捕える。

「…片づけるのが遅れると、嫁ぎ遅れるって言われてるの。だから…その日のうちに、片づけないと」

後半はぼそぼそと小さな声で話したけれど、ここはそれほど広くないの部屋なので全部ちゃんと聞こえてしまう。あんまり聞きたくなかったその言葉は、それでも嬉しくて俺の頬まで熱くした。ダメなんだ、、そんなこと、俺には許されない。けれど手を伸ばしたくて、捕まえて離したくなくて、この行き場のない気持ちはどうしたらいいんだろう。そんなもやもやと考え込む俺の心ごと抱きしめるみたいに、がぎゅうと抱きついてきた。

「メローネ、私ね、3月3日が誕生日なんだ」
「そう、だったのか」
「うん。だかからこの雛祭りって私にとって特に特別で…、ねえ、その日、一緒にこの子たちを、片づけに来てくれないかな」

胸元に顔をうずめて強く抱きついてくるのは、顔なんか見せられないほどに赤くなっているからなんだろうな、っていうのは、黒い髪の隙間からのぞく真っ赤な耳を見ればすぐにわかる。なんて遠回しな愛の告白だろう。俺が壊滅的に察しの悪い男だったらどうするんだ?

細い身体を抱きしめ返してやれば、腕の力はもっと強くなる。震えるほどに力をこめられたって全然痛くもかゆくもない、非力な、本当にただの女の子だ。暗殺者の自分が君の人生のすべてを奪うなんて、ダメなんだ。なのにこの腕を振りほどけないどころか、俺は3月3日にはどんな予定だって入れないようにしようと頭の中でスケジュールの整理を始めている。

だから、次にに言われた言葉の意味を理解するための脳の要領が一瞬だけ足りなくって、俺はなんとも間抜けな声を出しながら心臓を大きく跳ねさせることになるのだ。

「もし来られないなら…来ることができない理由があるのなら、メローネが私の手を取るのを躊躇する理由があって、私から離れたいって思うなら…、そのときは、ねえ、メローネが私を殺してね」

知ってるから。抱きしめていた体が離れて、小さな手が俺の手を強く握る。それは血に汚れた手で、本当ならの白い手を握る資格なんてないものだけど。

「メローネの手が何色でもね、私は、ずっとこの手を握っていたいって思ってるから。だから…もしそういうので悩んでいるなら、そんなこと、私はどうだっていいんだって知っててね。誕生日、来てくれたら嬉しい」

今度こそ泣きそうだった。なんで、いつ、どこで知られたんだっていう動揺と、それから知られてしまったら最後は俺から離れていくものだと思っていたからそうならなかったことへの動揺と、全部知られているという恐怖と…、ぐるぐると渦巻いている感情の種類を1つ1つ理解することなんでできるはずがなかった。じわ、と鼻の奥が痛くなるのを必死にこらえる。の黒い瞳はうっすら潤んで泣きそうに見えたけど、その目にうつる俺の顔の方がずっと泣きそうで情けない。

絶対に来るよ。呟いたのが声になったかならなかったかもわからないくらい小さな覚悟だったけど、が幸せそうに笑って涙をこぼしたので、きっとそれは届いたと思う。情けない俺は今すぐに言葉にすることができないけれど、その日に伝える気持ちは決まっている。、二人で幸せになるって、君の歴史に誓おうか。

私につながる今までとこの先のあなたとの未来