カランと気持ちの良いベルの音。それと対照的に開いた扉の向こう側は薄暗く、酒と煙草のにおいが地下の湿った空気と混ざり合って漂っている。いらっしゃい、とカウンターの向こうから聞こえる、場違いなほど優しい声はこのバールのマスターの娘だ。といっても、高齢のマスターは病気がちでほとんど店には顔を出さないので、実質的にはマスターと言ってもほとんど差し支えない。

「おつかれさまです。いつものでいいですか?」
「うん、まかせるよ」

薄暗さを利用しひっそりいちゃついたり、または後ろめたい取引をしたり。そういう連中は店の奥にある仕切りのある個室か、もしくはライトの当たらない奥のテーブル席に座る。店内で最も明るいカウンター席は、中にいる女が明らかに裏社会にそぐわない容姿をしていることもあってか人がいないことが多い。

今日も例にもれず1人も座っていないカウンター席の1番奥にすわり、横の壁にだらしなく体を預けた。いつもの、という常連っぽいセリフは、いつだってその日の気分でのおまかせカクテルを頼んでいるので決まったドリンクがあるわけではない。
ただ、その日の俺の様子や自分の気分、朝たまたま見たテレビの占いや昼間に見かけた花など、いろんなものを取り混ぜて出来上がるカクテルはだいたいがセンス良く、その日の気分に合うものがでてくる。

「はい、どーぞ」
「グラッツェ」

淡い桃色から黄色のグラデーションがかかったグラスを傾ける。境目がもやっと流れて混ざり、濃度の違いを均一にしていく。一口飲むと、とろりと甘い桃の香りがした。

「おいしいね、これ。俺の好みだ」
「グラッツェ。いつもそういってくれますね」



少し前の話。この地区を任された元暗殺チーム・現ボス護衛チームは、地区をさらに分割し1人あたり数件の店舗を受け持ち管理していた。俺はあまりそういうのが得意じゃないので、1軒ずつだらだらとあいさつをして回り、夜にしかあいていないというこのバールを残して初日の仕事を終えた。
慣れないことはするもんじゃないな、ストレスがたまる。そうして夕方にひと眠りして、夜中に起きたら空腹だった。せっかくだし、早めに済ませておきたいし、と足を運んだこのバールは、俺の胃袋と、そして淡い恋心をがっちりとつかんでしまったというわけだ。つまり、への一目惚れだった。

挨拶に来た俺に不安そうな目を向けて、それから前にここを取り仕切っていた男に代わって今後は俺が来るということを告げると、自分がマスターではないこと、父に電話させてほしいということ、それから少し電話をして、俺も変わって、そうしてやっと安心した表情を作って「よろしくお願いします」と言った。
お腹減ってるからなんか食べさせて、と言えば、魚介がたっぷりのパスタとミニサイズのピッツァが出てきた。それから、あなたのイメージなんですけど、とカクテルが出てくる。ほんのりと甘くて、けれどしつこくなく、爽やかな風味。これが俺のイメージ?と笑うと、おかしいでしょうか、と頬を染める。パスタもピッツァもとても美味しくて、それからそんな顔を見せられたら。夢中にならないほうが無理な話だ。

命を懸けて戦って、それから勝利をもぎ取り、もともとの計画とは違ったが縄張りを与えられ収入も待遇もぐっと良くなった。リーダーは今では幹部だし、以前と比べて数倍の給料が手に入るのに危険な仕事自体は減っていた。情報が間違えていて仕事で危険にさらされる、なんてこともほとんどなくなり、きっと平和ボケしているんだ。



考え込んでいた意識を引き戻したのは、背後で会話していた男が大声を上げたからだった。それを見て、さっきまで俺と話していて穏やかな顔をしていたが不安そうに目を伏せる。薄暗い店内でこそっと取引をしたら、大体の奴はさっと立ち去る。長居したっていいことはないからだ。
もめ事はボルテージを上げて、やがて言い争う2人は立ち上がった。1番近くにいた席のカップルは立ち上がり席を移動する。とめてあげないと、店に被害がでるな。そう思いイスから立ち上がろうとするより先に、視界に黒いエプロン姿が映る。…だ。

「あ、あの、お客さま、どうか落ち着いて…」
「あ"ァ"!?」
「ッ…、あの、お願いします、他のお客様もいらっしゃいますので、あの…」

ほとんど声は出ていない。イスから転がり落ちるように駆け寄って、の体を抱き寄せ男たちから距離を置くのと、男のこぶしが突き出されるのはほとんど同時だった。

「おいお前ら、ここが誰のエリアだと思ってんだ」

喉から出た声は自分のものとは思えないほど低い。腕の中に納まったの体は小刻みに震えている。けがはしていない。良かった。それにしても無茶をするなあと内心で苦笑して、それから他の客のためなら自分の危険を顧みずに立ち向かえる芯の強さを見直した。

俺に睨まれたチンピラ2人は見たことのない顔だ。パッショーネの構成員ではない、本当にただのその辺にいるタチの悪いチンピラだ。パッショーネのバッジをちらつかせれば、それだけで表情に焦りを浮かべて、適当な謝罪とそれからもう二度と来ないこと、命だけは惜しいということを早口にまくしたてながら立ち去っていく。本当は追いかけてぶっ殺してやりたいところだけど、今俺がすべきことはそれじゃあないってことくらいはわかる。

「…あ、あの、ありがとうございます……」
「怪我はない?無茶するね、君は」
「はい…おかげさまで…」

本当に助かりましたという声も身体もまだ震えている。よっぽど怖かったのだろう。歩ける?と声をかけてカウンターへ連れて行こうとすると、そんな状態なのに席を移動していたカップルに「騒がせてしまってごめんなさい」と頭を下げた。まったく、どれだけ良い奴なんだ。

いつもは立ったままカウンターにいるだが、さすがに難しかったのか座り込んで少し視線が低くなっていた。何も言わず空になったグラスを手持無沙汰にいじっていると、はっとした顔をして次作ります、と手を動かし始める。

「無理しなくていいんだよ。怖かったんだろ」
「はい…。でも、お客様が怪我したら困りますし…」
「俺が何のためにここに通ってると思ってるんだ?」

自分史上最もカッコイイ笑顔をイメージする。そして顔の筋肉を動かせば、はわかりやすく頬を染めた。

「頼ってくれ。俺はただの客じゃあない、ここら一帯を取り仕切るギャングだぜ」
「…そうでしたね。いつも穏やかで優しいので、つい忘れてしまいそうになります」

できるだけ明るい声色で接していれば、やはり心の底の強さがあるのか、の震えは止まっていた。次もおまかせでいいですか?うん、とびきりのを頼むよ。そういうとすっかりいつもの調子で、手際よくカクテルを混ぜ始める。
材料を手に取り、考えるように視線を斜め上に向けて、それから別のものを手に取る。そうしているを見るのが好きだ。今彼女の頭の中では、次のカクテルをつくるための情報が目まぐるしくめぐっているのだろう。俺のために。

「メローネさん、はい。今の気持ち…です」

グラッツェは笑顔で表した。真っ赤なカクテルは甘酸っぱいベリーの香り。そしてすこしだけピリッとする辛いアルコールの味。少し強めのお酒は、が出すものとしては随分と珍しいテイストだ。そう思ったのが表情に出ていたのか、グラスを傾ける顔をじっと見ていたは少し頬を染めた。

「どうですか?」
「美味しいよ。なんだか刺激的で、珍しい感じ。なんていうか……そうだな、甘酸っぱくて刺激的な初恋、みたいな」

嬉しそうに、少しだけ頬を染めていたは、ゆっくりと目を見開いて音を立てるように赤くなった。は、初恋、ですか。そういう声は小さいけれどはっきり耳に届く。え、まってよ。そんな反応されると困っちゃうんだけど。だってさ、その反応は。

「…ストレートに伝わっちゃって、ちょっとびっくりしました。私の今の気持ちです」

見たことのないふにゃりとした力のない笑顔の破壊力ときたら。照れているくせに、恥ずかしいくせに、わりかし素直に気持ちを伝えてくるあたり、やっぱり彼女はとても強い人なんだろう。