女は馬鹿な方が可愛い、なんて彼が言ったから、あたしは馬鹿になろうって決めたんだ。といっても、あたしは馬鹿じゃあなかったので、まずは馬鹿な女ってどういうものか勉強した。いかにも知性を感じない間延びした話し方、だらしなくて気に障る一人称、下品に露出した派手な色の洋服。馬鹿を演じるのって大変だ。学んだのは、馬鹿な女は馬鹿なりに金をかけて生きているということ。派手で露出の多い服は布面積が少ないわりにやたらと高いし、月明かりですら反射しそうなキラキラのラメの入った化粧品だって、頭痛のするような香水だってそうだった。控えめなメイクで綺麗に見えるよう身だしなみを整える、そんなのよりずっとコストがかかる。馬鹿な女と言うのは金の上に立っている。

女は馬鹿な方が可愛い、なんて彼は言っていて、それはきっと彼自身の自尊心が低いせいだったのだと思う。彼は自分に自信のない人だった。酔っぱらってあたしのことを殴りながらこぼした昔の女への罵倒は、賢い女に馬鹿にされたのが悔しくてたまらなかったという思い出話にしか聞こえなかった。あたしはそんなこと言わないわ、だってあたし、あなたより多くのことを知らないもの。頬を腫らしながらそういえば彼はやがて落ち着きを取り戻して私の頬を撫でながら、お前は可愛い女だ、俺にはお前しかいない、お前は俺を馬鹿にしないから愛している、なんて言って抱きしめてくれる。幸せで満たされた気持ちになる、あたしの人生って幸せだ。

女は馬鹿な方が可愛い、なんて言ってあたしのことを馬鹿な女にしたくせに、彼はある日から冷たくなった。視線は合わせてくれないし、愛してるとも言ってくれない。どうしちゃったの、ねえ、あたしのこと飽きちゃったの。そういえば、彼、なんて言ったと思う?馬鹿な女は嫌いだ、ですって。あーあ、なんか、もう、馬鹿みたいだ。あなたみたいな馬鹿な男は嫌いだ。あたしがどれだけ頑張って馬鹿を演じていたか、それがどれだけ大きな愛の上に成り立っていたか、あなたはわかってなかったのか。新しい女は賢く綺麗な金持ちの令嬢で、ちょっと頼りないところのある馬鹿な男が好きだった。そうなんだ。彼、ちょうどいいでしょう。本当に馬鹿な男だもの。泣けばいいのか怒ればいいのか悲しめばいいのか、私はどの感情も選び取れず、彼に合い鍵を奪い取られたときについた手のひらの切り傷から出た血をそのままにグラスを取った。透明な液体にゆらゆらと映って定まらない私は今の感情をそのまんまに表している。



マスターは私が馬鹿な女を演じていたことを知っている。ねえ、私、振られちゃったのよ。強めのアルコールを一気に飲み干して2杯目を頼む。彼の好みの馬鹿な女は強いお酒が苦手だった。久しぶりに飲んだ強いアルコールは喉を焼いて食道を通って胃まで一気に熱くして、吐き出したい気持ちを抑え込む理性をゆっくりほどいた。俺はあいつとの付き合いは反対だったよ。マスターは言う。私が初めてショッキングンピンクなヒョウ柄のタイトスカートを履いてここに来た時、そういえばマスター、ものすごく驚いた顔してたわね。それから眉間にぎゅっと皺を寄せて、そういうのは関心しないって言ったっけ。でもね、それでも、あたしはそれでも彼のそばにいたいって思うのよ。頑張って覚えた馬鹿のマネはマスターの表情をどんどん険しくした。日がたつにつれそういうのに慣れてしまって、私があざをつくって、腕を吊って、ボロボロになりながらもここに息抜きをしに来るのを、見守ってくれてたね。

私の最後の自尊心はここに置いてあった。限界まで馬鹿のふりをしたけれど、最後の1歩、本当に馬鹿になるのがこわかった。だから賢い私はここに置き去りにした。それを取りに来たんだよ。ちゃんとわかっていたように、マスターは「お疲れ様」って言いながら、以前の私の好きだったカクテルを出してくれた。それは懐かしくって、甘くって、私は馬鹿なんかじゃない、1人の人間で、尊敬されるべき人間で、無意味にぶたれたりすべき人間じゃあないっていうのを思い出させてくれた。美味しい。やっと、泣けそうだ。

「私ね、あの人のこと、大好きだったんです」
「そうだね、見ていてよーくわかったよ」
「女は馬鹿な方が可愛い、ほら、ああいう馬鹿な女だ、わかるかい?って、言ったのよ」
「そうなろうと努力したのも、ちゃんと見ていたからね」
「馬鹿な女は嫌い、ですって。…あーあ、私、何やってたんだろう…1年も…ねえ、こんな服着て…」

ぼろぼろとあふれ出した滴は露出した胸に落ちて見えている下着を濡らしたし、あざまみれの腕や、傷だらけの手や、古びたカウンターやグラスに落ちては跳ねてあたりを濡らした。人間ってこんな勢いで泣けるんだっていうほどの涙で私はびしょびしょになってしまう。マスターは何も言わず代わりのカクテルを用意してくれて、私がただ声をあげずにひたすら濡れていくのを見ていてくれた。

私は泣いていたので、隣に人が座ったのも、その人がマスターと目配せをしたのも、私の濡れた身体に普段持ち歩いているとは到底思えない大判のタオルを押しつけて水分を吸い取ったのにも、少しの間気づかなかった。頭の中いっぱいに広がった悲しみと、それからきっと悔しいという気持ちもあった。ぐしゃぐしゃに整理できない感情が全部水になって、体から抜けた水分を補おうとカクテルを手に取ろうとして、私はようやく隣に人がいることと、渡されたタオルに気づいたのだ。柔らかくて、清潔な男性のにおいのするタオルだ。もう随分と私の涙を吸っているこれはいつからあったんだ。隣にいる男性は、カウンターに肩肘をついて私の泣き顔を見上げている。

「あ…れ、私、タオル…あなたの?」
「この状況じゃその可能性しかねーだろうなあ」
「そ、ですね…」

状況がわからなかったのでカクテルを一気に煽った。マスターが次を出してくれるのでそれも一気に空にした。強いのちょうだい、と言えば今日は甘やかしてくれる気分なのか、マスターははいはい、と甘くて強い身体によくないお酒をコトリと置いてくれる。驚いた私はすっかり涙がとまったらしい。頭痛がする。まだ私を見上げている男性の表情はうまく読み取れなかった。水色の頭はくるくると巻かれていて、セットされているのか天然なのかはわからない。さ、触ってみたい。

「お前さあ、コイビトに振られたってマジ?」
「ッ…、な、んで、今、そんなこと…」

せっかく泣き止んだのに。なんでまた泣かせるようなこと言うんだ。じわ、と再度浮かび上がった涙をこらえようと唇を噛んだら、彼は少しだけあわてたように私の唇に指を添えた。

「切れンぞ」
「あなたが、泣かせるようなこと…」

こらえきれなかった。涙はやっぱりぼろりとあふれ出した。彼はため息をついて体を起こして私に向き直る。マスターが彼に微笑んでカクテルを置いた。知り合いなんだろうか。涙を拭おうと目をこする私の両手を彼は何故だか握りしめて、まるで今から獲物をしとめるみたいな鋭い目で私の両目を見た。ちょっと怖かったけど、それは逃げ出したい怖さではなかった。

「俺はよォ、お前が付き合ってたアイツよりずっと前からココでお前のこと見てたんだよ」
「…そう、なんですか」
「なのにあんな馬鹿な男に引っ掛かりやがって、あいつがお前のことなんて言ってたか知ってるか?”頭が良いくせに俺のために馬鹿を演じる、正真正銘の馬鹿”だってよ」
「……そう、」

そんなこと、言われなくたって、薄々気づいてた。彼が私を見る目にこもる熱が、愛情じゃなくって優越感だって、彼のことを1番見ていた私だから、わかってたよ。気づきたくなかった。だって大好きだったんだ。優越感でもよかった、支配欲でもよかった、私は彼のそばにいたかったんだ。今だって、さっきのは嘘だ、やっぱり俺には君しかいないって言われたら、私はきっと彼の腕に飛び込むだろう。そんな馬鹿な恋なんだ。

「報われない、一方通行の恋でも、見下されているだけだとしても、私は好きだったの」
「…まあ、”好き”なんてのはそんなもんだろ。俺もそうだ」

ああ、さっきこの人、なんて言ってたかな。私のこと見てた、って…、恋をしているのか。それは、私にだろうか。私が彼についてまわって、馬鹿な女のふりをしている間、ずっと、私のことを彼は見ていたのかな。

、俺はお前みてーな頭の良い女が好きだ」
「…わたしは馬鹿な女だわ。だって、好きな人のためなら、どんな馬鹿なふりだってできてしまう」

こんな、胸元をざっくりあけて下着を見せて、足を組んで太ももをほとんど全部出して、10センチもあるピンヒールはキラキラに光る素材でカツカツと下品な音を立てる。真っ赤なグロスはもう落ちてしまったかもしれないけれど、瞬きするたび少しだけ目がチクリと痛む青いラメのアイシャドーだって。

「…確かに、その格好はにあわねーな」
「でしょう?馬鹿なの、わたし」
「他の男のにおいがする似合わねー服なんてさっさと脱いじまいな」

乱暴に押し付けられた紙袋には私の好きな、以前の私が着ていたようなシンプルなワンピースがはいっていた。きっと膝まで隠してくれるそれは無駄な装飾のない無地のもので、腕の傷を全部隠せる長袖のもの。これ、と言う前に、マスターが「奥の部屋、空いていますよ」とほほ笑んだので、私は何だかよくわからない気持ちのまま、その空気に流されてしまうことにした。つらい恋を忘れるのに最も有効なのって、次の恋を見つけること、らしいから。

「ありがとう。ねえ、着替えたら一緒にお出かけしない?」
「ハッ、先に誘われるとは思わなかったな」
「誘ってくれるつもりだったの?名前も知らないのに…」
「ギアッチョ」
「…こんなに熱いアプローチをしてくれるのに?」

なんだかおかしくって、声をあげて笑った。馬鹿なふりをしない笑い声なんて久しぶりだ。ギアッチョも同じように笑って、さあ、って手を取ってくれたから、あなたはまるで氷の王様みたいだって感想を伝えてみる。さっきまで私、心が冷え切ってしにそうだった。でも今は、なんだかとってもあったかいや。

立ち上がって奥の部屋に入って、結構な量を飲んだのに全然ふらつかない足元を確認する。ご丁寧にぴったりサイズの靴まで入っているからおかしくなった。いくら私のことを見ていたといっても、ここまでぴったりの服を用意してくるのならそれはストーカーの領域だ。今は、そんなの全然嫌じゃないけれど。

着替えて出れば、やっぱり似合うな、と満足気というよりはどや顔にちかい表情を見せた。彼は少しだけ眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔をしている、と思ったけれど、存外表情豊かなのかもしれない。どこへでも、連れて行ってくれますか。

マスターにお金を渡そうとしたら、もうもらったよとあごでギアッチョをさした。着替えてる間にお支払い、なんてスマートな男なんだ。1年間こんな扱いを受けていなかった私は、じわじわと指先が熱くなって、自分が1人の人間として、女として扱われていることに喜びを感じているのだと思った。恋の上書き、もしかしたら結構早くできてしまうかも。

「おい、あの馬鹿男、氷漬けにしてブチ割ってやろうか?」
「何それ、そんなことできるの?かっこいい!」

冗談じゃねーんだけどな、と私の反応に苦笑を返して、ギアッチョは私の手をとって自分の腕に回した。少しだけ力が強くて乱暴なんだけど、それは痛くないなんだかどきどきしてしまう力強さだ。私、思ったよりも早く、あなたのこと好きになれそう。



馬鹿な女と氷の王様



数日後ギアッチョの部屋のテレビで見たのは、彼とあの女が真夏なのに自宅で凍死したという、なんとも背筋の凍るニュースだった。