フーゴは頭が良くっていいね、とは笑った。

「学校行ってないから、私は何にも知らないんだ」
「これから知って行けばいい。ナランチャと違ってあなたは呑み込みが早い」
「勉強だけじゃなくってさ。ねえ、もっといろんなこと教えてよ。どうして朝がきて夜がくるのか、どうして植物はアスファルトを突き破って空に向かうのか、どうしてひまわりはいつだって太陽を見てるのか、どうして道はずーっとまっすぐに続いているのか、その終わりはどこにあるのか。知らないことってたくさんあるの。そういうのって、学校で教えてもらえるの?」

ノートの文字を覆い隠すように手をついて乗り出したはそんな子どもみたいな疑問を並べ立てて、楽しそうな丸い瞳をフーゴに向けた。親か、その親あたりにアジアの人でもいるんだろうと想像できる色の瞳は僕を捕えているようで何も映していない。
濃い色の瞳は何を考えているのかわかりにくい。光を全部吸収してしまっているみたいな真っ黒の瞳、その暗闇に何か光るものを与えてやろうかな…なんて、そんな気まぐれを起こした僕はその日の手を引いて街を歩いた。

「まず、今僕らがいる地球ってのは、まるいんです」
「じゃあ、あんまり端っこに行くと落ちちゃうの?」
「地球には重力っていうのがあって…」

こんなことも知らない大人がいるなんてギャングになる前は想像もしていなかった。ブチャラティやアバッキオとそう変わらない年齢の彼女は、自分とほとんど変わらないくらいに幼く見える人だったから違和感は少なくて済んだけれど、それでも幼児みたいな疑問を素直にぶつけてくる彼女の純粋な無知さは、フーゴの胸に何かつっかえを残し続けていた。

うん、うん、すごいね、フーゴは何でも知ってるんだね。笑顔で時々説明を繰り返しながら歩く。は一度説明したことを絶対に忘れない。記憶力は人一倍、もしかしたらフーゴだって上回るであろうそれは才能として認めるべきものだ。そんな才能が有りながら何も知らないというのなら、本当にそんなこと1度も耳にせず生きて来たのだろう。

フーゴとほとんど同じ時期にブチャラティが連れてきたがそれまでどこで何をしていたのかフーゴは知らない。ブチャラティもすべては知らないらしいし、は絶対に話さなかった。言いたくないのなら無理に聞き出すことはない、どうせここにいる人は全員がわけありなのだし。

いつもの勉強じゃなくって、この世界のこと、今生きてる世界のこと、もっと大きなことが知りたい。私は広い空の下で生きてるんだから。噴水のある広場で長いスカートをふわりと揺らして回って、子どもみたいにはしゃぐのことを自然と「かわいい」と思った。かわいいひとだ。純粋で、無知で、貪欲で、それからずるい。

なんにも知らない顔をして、あれはなに、これはなに、フーゴはすごいね、そういって笑うあなたはきっと僕よりもずっと賢いのだ。賢いのに、知らないふりをして笑う。本当は何を知っているのか、本当に何も知らないのか、その判断ができるほど僕はのことを理解できなかったから、本当にずるいひとだと、ただその少しだけ浮いたスカートの裾から覗く白いふくらはぎを見て思った。





ほら、やっぱりあなたはずるいひとだ。賢いあなたは、賢いからこそブチャラティの手を取る。

そんな勝ち目のない、救いのない、未来のない、無謀な道を選ぶなんて馬鹿のすることだ。僕は馬鹿にはなれない。だからその船には乗れない。
それなのには躊躇わず船に乗った。考える時間すらとらなかったかもしれない、その迷いなく歩く足が船に上がるとき、風が吹いて長いスカートを揺らした。ふわりと覗いたふくらはぎの色が真っ白で陶器のように滑らかなのだと、初めて知ったのは噴水の前でこの世界のことが知りたいと言いながら彼女がくるくる回った時だった。なぜ喉がゴクリと鳴ったのかその理由があの時はわからなかったけれど、船に両足をついてその白が隠れた瞬間に僕はそれに気づいてしまった。

きっと自分と同じように賢くて、同じように生きてきて、そしてブチャラティの手を取ったに、僕がしていたのは恋だった。その感情のベクトルはきっと一方通行で彼女から僕へ向かってくることはないのだろうけど、手の届かない水の上、頼りない船の上にいる彼女の背中に確かに突き刺さっているのが見えた。

、行くんですか」
「フーゴは、きっと来ないんでしょうね」

振り返らない彼女の肩は震えている。無理はしなくていいんだというブチャラティはその震えを恐怖だと思っているのかもしれない。けれど僕は、その震えがそんな感情ではないのだと、どこか頭の片隅の方で思っていた。

「フーゴ、ねえ、地球ってまるいんだよ」
「知っています。それは僕が教えた事でしょう」
「そう、フーゴが教えてくれたの。どんな道もずーっと先まで続いていて、地球は丸いから、落ちてしまったりしないんだって」
「それ、は」
「未来のない、先のない道を歩いて行くんだって思っているでしょう。でもね、私が信じた私の道は、ぐるっとどこまでもきっと歩いて行ける」

の声色に迷いはない。振り返ってまっすぐに僕を映した黒い瞳はぼんやりと揺れている。

「私ね、信じた道を歩くから。ここで背中合わせになるフーゴも、自分の信じた道をまっすぐに歩いてね。そうしたらきっとまた会えるから。地球はまるくて、空はいつだって1つで、どこまでもおんなじに続いているって…フーゴが教えてくれたこと、信じてるからね」

陸を離れていく船から、またね、と呟かれた声は小さかったのに風に乗って随分とはっきり聞こえた。それはフーゴの胸を突き刺して離れなくて、その突き刺さったものがきっと自分に向いたのそれなのだろう。今更気づいたってもう手遅れだ。こんなことならもっと早くその手を取って自分につなぎとめておけばよかったのか、彼女はそれでも船に乗ったのか。

考えても意味なんてないように思えて、いつの間にかこぼれそうになっていた涙を無理やりに振り払って踵を返した。

なんにもしらないふりをして