自分が受けた痛みが他人まで傷つけることがある、なんて、その時の私は知らなかったのだ。だから、私の足元に転がる虫の息になったおじさんを見下ろす私はひどく混乱していて、私を抱きしめたまま泣いているみたいに震えているフーゴの背中を、戸惑いながらもさすってあげるしかなかった。

「フーゴ、どうしたの。大丈夫?」

返事はない。フーゴは私よりずっと大きいから、すっぽりと包み込むように抱かれてしまえば私は表情も伺えない。

「なんでこんなことしたの?なんか、あった?」

震えていた体が、より一層大きく跳ねた。抱きしめる力が強くなる。方がきしむほど強いから、ねえ、痛いよ。って言ってみるけど、聞こえていないはずがない言葉は無視することに決めたらしい。

はあ、とため息よりは強くて、深呼吸よりは浅そうな、そんな音がしてフーゴは私を離した。

「すみません、取り乱しました。処理しないと…ブチャラティを呼んでも構いませんか?」
「え、うん、もちろん。それ私に確認する必要なんてないよね?」

何を気にしているのかわらない。そういう顔で返事をすれば、落ち着いたと思ったフーゴの表情はまた少し苦しそうに歪められた。本当にどうしちゃったんだろう。今日のフーゴはどこかおかしい。





「フーゴ、。待たせたな」

ここはみんながよく集まるリストランテからそれほど離れていない場所だった。だから待たせたなと言われるほど私達は待ちぼうけをくらってなんかいなかったけれど、この理由のわからない沈黙とフーゴの苛つきには困っていたから、ブチャラティ、と呼んだ声は少しだけ弾んだ。

「そのじいさんの処理か」
「はい、すみませんブチャラティ。こんなことで」
「それは構わないが、何があった?」

ブチャラティに向かい合っているのは私で、フーゴは背中を向けている。

「私がこのおじさんと話していたら、たまたま通りかかったフーゴが突然殴りかかって…」
「……そうなのか、フーゴ?」

腑に落ちないと言う顔だ。私だってそう思う。フーゴの行動の理由は私にもわからなかった。だから困惑している。

私とブチャラティの説明を求める視線を受けたフーゴの目はいつもより子どもの色をしていて、その奥に怒りが見えた気がした。

「話してたって…、よく言う、そんな格好で」
「……?」
「何もわからないみたいな顔をして、そんな見知らぬ男にべたべた身体を触られて、貴女が抵抗しないから」

落ち着きを保とうとする努力は伝わる声色だ。それを聞きながら大股で近づいたブチャラティが、フーゴの体に隠れていた私の腕を引っ張る。確かに今の私はあのおじさんに脱がされかかっていたからシャツの前は全部あいて下着が見えているし、ボタンはいくつかちぎれてしまったし、噛みつかれた鎖骨には血が滲んでいるかもしれない。滑らかじゃない壁に押さえつけられた手だって擦りむいて赤くなっている。
でもだからってそれが、フーゴの怒りに繋がるのが私にはわからなかった。しかし、その理由のわからない怒りの火はブチャラティにも燃え移ったらしい。

、それはこいつにやられたのか」
「うん、でも別になんともないですよ。ちょっとしたかすり傷で…」
「そういうことじゃあないだろ!」

ブチャラティと向き合うようになった私に横から大声を張り上げたのはフーゴだった。驚いて大げさに体が跳ねて、それをみたフーゴはすぐにすみませんと謝った。

「ね、ねえ、わからないの。フーゴ、ほんとに今日はおかしいよ…どうしちゃったの?ブチャラティ、フーゴの調子がおかしいの…」
、それは…」

言いにくそうに、言葉を選ぶみたいにブチャラティは黙った。彼は頼りになる大人で、いつだって正しい。きっと私が困惑していることも、フーゴが何に苛立っているのかも理解しているんだろう。そして、その理由をうまく説明する言葉を探して、私にもわかるように並べて、整理してくれている。

やがて考え終わったのか、その沈黙はほんの数秒の間ではあったけど、とりあえず戻ろうかと言いながら地面に現れたジッパーにおじさんを蹴り落とした。帰ろうとしてシャツの前を閉めようとしたら、いくつかちぎれたと思ったボタンはほとんどだったらしい。これじゃあ閉められないので諦めて前を手で抑える。そんなに距離もないし、まあいいだろう。そう思って歩き出したら、振り返って私を見たフーゴが舌打ちをした。

「ねえフーゴ、なんでそんなに怒ってるの…あの人、フーゴになんかした?知り合い?」
「あんたは………自分が何をされたのかわかってないのか?僕がここを通らなかったらどうなってたかわからないほど、子どもじゃないだろ」
「それはわかってるけど、私が何されたって、フーゴには関係ないじゃない」
「は!?本気で言ってるのか、

フーゴの拳は返り血がついたままで、それが強く握りしめられたのに気づいて私は少し後ずさった。だって本当にわからないんだよ、と言う気持ちで目を見つめかえしても、フーゴは引いてくれる様子はない。

にらみ合いはブチャラティの一声で遮られた。

、フーゴ、まずは帰って着替えて、それから二人でちゃんと話し合うんだ」
「…はい」

。返事をしない私に、ブチャラティは子どもにするようにしゃがんで視線を合わせた。

「フーゴの話をちゃんと聞いてやれ。には難しいかもしれないが、傷ついたのが自分じゃあないからこそ痛いこともある」
「わかんないよ」
「わからなくてもいい。話し合って、フーゴがなんでこんなことをしたか、その理由をちゃんと聞きなさい」

いいね、と頭をくしゃりと撫でられたので、子供扱いしないでよと思いながらも私は笑顔をつくって頷いた。頭を撫でられるのは、好きだったから。

「いい子だ」

ブチャラティがしゃがんだ姿勢から立ち上がったら、私の視線も高くなった。抱き上げられたと気づいてびっくりしたけど、私のボロボロの服を隠そうとしてくれたのかもしれない。首に腕を回して自分より低くなったフーゴを見たら、ちょっとだけ嫌そうな顔をして目をそらされた。

いつもいつもフーゴのことはよくわからないけど、やっぱり今日も理解できない。アジトに帰って、じゃあ話し合いをしましょうって向き合って、ゆっくり1つずつ整理していっても、やっぱり変わらなかった。



結局このときのフーゴの気持ちを理解できたのは、とある任務で訪れたポンペイの鏡の中で一方的に殴られるフーゴを見た瞬間だった。