身体は丈夫な自信があったのに、結局検査やあれこれで私の退院予定日は3月25日と決まった。これを聞いて、退院が決まってよかったなと、ブチャラティにフーゴにナランチャにミスタ、そしてアバッキオ先輩までもがおめでとうの言葉をくれたのだけど、私は焦った。その日はなんと大好きな先輩の誕生日であって、おめでとうと言われるのが私ではダメなんです。せめてあと1日前倒しに、いっそ後に倒してもいい、…いやそれはダメだ、先輩をお祝いできなくなってしまう。

せめてあと1日でいいんです、はやく退院させてもらえませんかと医者にまで掛け合ったけれど、無慈悲にも却下されてしまった。なんでそんなに早く退院したいんだと言われたって私のピュアで淡い恋心を見ず知らずの他人に話すなんてできなかったけれど、そもそも病室で暇なときはいつも看護師相手にコイバナなんてものをしていた私だからその噂はとっくに広まっていた。とある察しの良い若い女性看護師が「もしかして」と言ったところで先輩の誕生日が退院日と重なっていることを結局話してしまって、そうしたら「退院日を変えてあげることはできないけど、協力はしてあげられるよ」と私は優しい看護師複数人の協力を得ることができたのだった。

今日はそんな大事な日。

「これで全部か」
「あっ先輩、いいですいいです、自分で持ちます」
「いいから甘えとけ」
「……ありがとう、アバッキオ」

よいしょ、と大き目な荷物を肩に担いだアバッキオが、行くぞと目で合図する。振り返って忘れ物がないことをもう一度確認して、うん、大丈夫だって歩き出した。

ちゃん、元気でね。もう来ちゃだめよ。そういう看護師さんたちは優しい目で私と先輩を見ていて、なんだかすごく恥ずかしい。みんな、私がこの人のことをずーっと前からすっごく大好きだって知っているんだと思うと。病院で働く、人の痛みを癒すために働く優しい人たち。ギャングである私たちとはまったく正反対の正しい世界で生きている、ごく普通の人との恋の話はものすごく楽しかった。まるで自分が普通の女の子になったみたいに思ってしまったよ。

「またお世話にならないよう、気を付けますね!」
「もう来させねーよ」

横を向いてふらついて歩く私の頭を、アバッキオの大きな手がつかんで前を向かせた。それと同時に降ってきたセリフはいろんなことを気楽に考えて生きている私の心臓をドスリと何百回目かわからない恋の矢で射ぬいて顔を赤くさせる。見ていた看護師さんの何人かがきゃあと声をあげた。
先輩は、ホワイトデーのあの時からちょっとだけおかしい。……まるで、私のことが好きみたいって思ってしまうような振る舞いをするんだもの。





運転席のアバッキオの横顔を見つめてみる。この車はいつの間にかアジトにあった適当な車で、誰でも乗り回して良いものだけどほとんどの場合アバッキオが運転する。体が大きくてたくましくて銀色の長髪はさらりと揺れて、不思議な色の瞳は鋭い視線でまっすぐ前を見て暗い色のルージュはセクシーな唇をこれでもかと強調する。そんな彼は仕草もいちいち大きくて音を立ててガサツ、なのだけど、こうして運転するときだけは彼の仕草は警官のものになる。安全第一、交通マナーはしっかり守る。そんなギャングいるだろうか、いるんだな目の前に。根が真面目なものだからこういう公共の場では最低限常識的な行動をとるアバッキオのことは素直に好ましいと思う。恋愛の好き嫌いを抜きにしても。

じぃっと見つめていたら、真っ直ぐ前を見たまま暗いルージュで彩られた唇が薄く開いた。

「まだ痛むのか?」
「もう痛くないですよ。骨自体はスタンドでくっついてて、体として馴染んで完治するのはあと1か月くらいかかるらしいですけど…無理しなきゃ普通に生活してて問題ないって言われました」
「そうか」

入院している間は、低くて落ち着いた声が短く消えるたび私の心臓はドキドキと鳴って傷も痛んだ。けれどもうそれもすっかり消えてしまったから、残るのは高鳴る鼓動だけ。ずーっと憧れていた先輩の隣にいることで緊張したりなんかしなかったはずなのに、今のは私は先輩と同じでちょっとだけおかしい。それはきっと先輩が態度を変えたからだ。

「ブチャラティがお前の退院祝いするって言ってきかなくてな。何でも好きなもの作ってやるから買い出しして来いってよ」
「え、今日、私のですか?」
「他に何があんだよ」

先輩の誕生日、と言おうとして口をふさいだ。誕生日をするつもりがないのなら、私からのプレゼントはサプライズになるはずだ。何でもないですと誤魔化して、後部座席に積まれた荷物の中にあるプレゼントのことを考える。当日にお祝いできるようにって、看護師が気を使って買ってきてくれたプレゼント。指定のものがなくって探し回っちゃいましたと言う彼女には申し訳なかったけれど、喜んでもらえると良いですねって笑ってくれた顔は本当に私の幸せを祈ってくれてるもので、嬉しさで胸がいっぱいになった。

「いつもンとこでいいか?」
「大丈夫です。何作ってもらおうかな、先輩は何食べたいですか?」
「お前の退院祝いだろ」

でも、先輩だって誕生日じゃないですか。…とは、言わないことにしたんだった。私のリクエストとして先輩の好物も入れておこう。





「ただいま、…わー!すごい!」

「おかえり、久しぶりだな。この頃はお見舞いに行けなくてすまなかった」
「俺とフーゴとミスタで飾り付けたんだぜ!」
「あなたは散らかしただけでしょう。おかえりなさい、
「ずっとアバッキオといられるからもうちょっと入院してたほうが良かったんじゃねーか?」

久しぶりのアジトは色紙で作られた輪などで飾り付けられていた。おかえりなさい、とあんまり上手じゃない字で書いてくれたのはナランチャだろう。フーゴに教えてもらって一生懸命に書いたのだと思うと微笑ましい。

ブチャラティは相変わらず優しくて、可愛いエプロンをしてキッチンから顔をだした。ナランチャはどんと胸を張って自慢げにしているし、それに呆れながらもフーゴは穏やかに迎えてくれる。ミスタはそんなこと言って茶化すけれど、一番に玄関まででてきて私の肩に腕を回した。

「ちょっと大げさな気もするけど…みんなありがとう!アバッキオも、お迎えも荷物も、ありがとうございます」

振り返って笑ったら、アバッキオも少し笑ったような気がした。嬉しいのと恥ずかしいのとで、なんだか心がむずむずする。あんまりにもわかりやすく態度が柔らかくなったのに、先輩は私のことをどう思っているのか伝えてくれるわけではなかった。すっごく大好きだって思っているのがついに正しく伝わって、それならせめて優しくしてやろうっていう情けをかけられているのかもしてないから、勘違いしてぬか喜びなんかしたら辛いので私もあと一歩大好きって踏み出す勇気がでない。



ブチャラティが作ってくれたご馳走に舌鼓を打ちながら、食事には似つかわしくない私がこんなに入院する原因になった奴らの末路を聞いた。ブチャラティは穏やかで真摯な性格をしていて敵に対してもそれは変わらないことがほとんどなのだけど、今回の私みたいに部下が傷つけられるとその穏やかさはすべて消え去ったみたいに冷酷になる。あの組織はさぞ痛い目を見たことだろう。
私は、私以上にブチャラティやアバッキオが怒ってくれたので実はそれほど彼らに興味はなかった。先輩にもらった大切なお守りの第二ボタン、あれが砕け散ってしまったことは思い出しても胸が痛むけれどそれだけだ。カケラはほとんどナランチャとフーゴが拾い集めてくれたし、今は変わりにペンダントがある。
そっと胸元に手をやって小さな存在を確認し、実にまっとうに生きてきた人生の中で一般的に言えば「道を踏み外した」後であるギャング生活の今が一番に充実しているということを実感して少しだけ笑った。

は病み上がりだから、と片付けを免除されるという甘やかしを受けた私はさっさと自室に戻ることにした。少しだけホコリの積もった部屋で眠るのは嫌だなあと思っていたのだけど、ホコリっぽさのない部屋はきっとフーゴかブチャラティが掃除してくれたんだろう。どこまでも身内に甘いギャングだ。
入院の荷物はアバッキオが運び込んでくれて部屋の入口の横においてあった。チャックを開くと1番上に乗っている小さな箱は看護師が買ってきてくれたアバッキオへの贈り物だ。いつ渡そう、と時計を見るとまだ今日は暫く続く。リビングの方ではまだ物音がしていて、賑やかに後片付けが行われているのがわかった。
本当に帰ってきたんだなあ。先輩を守れたら私の命なんかどうだって、と思って飛び出したけれど、結局は先輩がくれたボタンに守られた。命は無事、骨も無事、後遺症もなくこうしてここに戻ってこられたのってとっても運が良く幸せなことなんじゃないだろうか。

荷物を片付けてごそごそしていたら、みんなは自室に戻ったのかリビングの方は静かになった。まだ時計の針が真上で揃うまでは少し時間があるのを確認してから、私は小さな箱を持ってそっと部屋を抜け出した。別に部屋を出てはいけないなんて決まりはないけれど、他の人にからかわれたりしたら先輩は嫌がりそうだから。



「…失礼します。アバッキオ、起きてますか?」

コン、と控えめなノックと一緒に話しかけると、少しだけ物音がして扉が開いた。部屋着で普段よりゆるりとした服の先輩を始めてみた時、私はそのあまりの色っぽさにくらりとめまいがした。かっこいい、セクシー、そんな言葉で表せるようなものじゃないそれはらしくなく私を赤面させたし、「年が近いと刺激が強いか」とよくわからないフォローをブチャラティにさせてしまったものだ。今ではすっかり慣れ…てはいないけれど一応薄めで直視はできるし、私だってあんまりしっかりしていない部屋着姿を見せるのにも抵抗はなくなった。

「どうした、寝たんじゃなかったのか」
「お話があって、少しだけお邪魔してもいいですか?」

先輩は時計をちらりと見て私を見て、少しだけ何かを言おうとして唇を閉じた。より大きく開かれた扉は無言だけれど中に入れてくれるのだという仕草だから、お邪魔しますと小声で言って部屋に入る。この家には他のみんなも住んでいるから、大きな声を出せばそれは少なからず誰かの耳に届く。きっとこの物音ですでにブチャラティなんかは気づいているはずだけれど、それはそれだ。

「先輩、入院中と今日と、本当におせわになりました」
「気にすんな」
「それで…、先輩、今日お誕生日ですよね。あの、これ、先輩に」

おめでとうございます。少しだけ声が大きくなった私に眉をひそめながら、先輩は驚いた顔をした。ギャングになってから先輩の誕生日を迎えるのは今年が初めてではなかったんだけど、私は先輩のこと知らないふりをしていたので祝えなかったのだ。学生のころ、こっそり生徒手帳を盗み見て知った誕生日なんて。

「受け取ってください、先輩に似合うと思うんです」
「…それでか。あれお前の好物じゃなかっただろ」

ブチャラティに頼んで作ってもらったご馳走、そのメニューには私がたべられないものもあった。それは先輩の好物で、ブチャラティも「はこれが好きだったか?」なんて言っていたから気づいていたかもしれないね。みんななんだんだで察しが良いので。
箱を受け取ってくれた先輩は無言でそれを開いて中身を確認した。きっと先輩に似合うだろう、いつも使っているのと同じメーカーの春の限定色のルージュだ。濃いその色はきっと私には似合わない。けれど先輩にはとてもぴったりだと思った。外装も美しいそれは持っているだけで心がわくわくしそうなもので、いつか私もあんな大人っぽい色が似合う女性になれたらいいなあって思う。

「…グラッツェ」

そう言った先輩の笑顔は、笑顔っていうにはやっぱり真顔に近いものだけど、私には十分だった。何年も憧れて、こうして同じ家に住んで1年以上たっても毎日、ううん、顔を合わせるたびに私をときめかせるんだから先輩はすごい。

「…だが、こんな時間に惚れてるって公言してる男の部屋に来るっていうのは感心しねえな、
「え?」

惚れてるとかそういう言葉を先輩の口から聞くのは初めてで、名前を呼ぶのだってずいぶんと珍しい。だからびっくりして、じんわりと嬉しいなって感じていた気持ちがすっと引き締まった。

大きな一歩で至近距離に迫った先輩の顔。
あの日見た眩しい夕焼け、それがやがて夜になるような、不思議な色合いの瞳に私が映る。そこにいる私は一瞬前ののんきに幸せを噛み締めていたのとは程遠い不安そうな顔をしていて情けなかった。もっとちゃんとした顔をできないのか、と思ったけれど、その不安そうな表情は今にも泣きそうなほどに揺らぐだけだった。じっと見つめる瞳の下の方で、暗く彩られた分厚い唇が少しだけ引き締まる。その色、先輩にはとっても似合って最高にセクシーですけど、私にはきっと似合わないんでしょうね。さっき渡した春のルージュだって私には不釣り合いだ。
大人なのに、大人っぽさとはかけ離れた私。たった1つしか違わないのに、私よりずっと大人びた先輩。混ざり合ったりなんかできないかもしれないけれど、それでも私は先輩のことこんなにも大好きなんですよ。
ゆっくり持ち上げられた先輩の手が私の顎を掴んで持ち上げた。雰囲気に負けて逸らしてしまいそうだった視線を絶対離さないとばかりのその行動がその後どうなるものなのか、経験のない私はその瞬間まで気が付けなくって。

初めては目を閉じて、雰囲気の良いレストランか夕陽の見える丘でとか、そんな夢を見ていたはずだった。

ぴったり3秒。それが私の体感だったけれど、本当はもっと長かったかもしれないし短かったかもしれない。唇を離しても手は顎にあてられたままで、大きな親指がぐいっと私の唇を拭った。似合わねーな、と呟いた声も表情も、きっと一生忘れない。先輩ったら、そんな柔らかさも持ってたんですね。なんて軽口を叩きたい気持ちは涙になってぽたぽた落ちた。

わたしに似合わない先輩のルージュ、それから春の色をしたルージュも、いつか似合う女性になれるでしょうか。


似合わなくても、何度でも