ちらりと視界の端に入った青に、武蔵野は軽く目を擦った。さあさあと静かな雨の音。ざんざんと叩きつける雨よりはいくらかマシだが、それでもやる気は削がれていく。周りに誰もいないのを確認しながら部屋へ戻ろうとした矢先の出来事だった。柱の影に隠れているつもりだろうその影は、しきりに向こう側を気にしている。コートの裾がはみ出していることには気づいていないらしい。にやりと面白がるような笑顔を浮かべた武蔵野は、こそこそとその影に近づいた。

「なーにしてんの、チャン」

「っ!わ、やだ武蔵野さん、驚かさないでくださいよ…」

びくりと大げさに跳ねた小さな体をこちらに向けると、はほっと胸をなでおろした。何してたの、と尋ねると、途端にはっとしたように周りをきょろきょろと見回す。誰もいないですね、と小声で言えば、大きな目でおれを見上げる。

「武蔵野さんもおさぼりですか?」

「自主休業っていうんだよ」

「実は私もそんな感じ、です」

内緒ですよ、と小さな唇に細い人差し指を重ねる。真剣な目に思わずおう、と返すと、くすりと楽しそうに笑っておれの手をとる。小さくて暖かくて柔らかい手。手を握ったつもりだったのだろうがその手に握られたのは小指の側から3本だけで、残りの取り残された2本が涼しくなる。どうした?と頭1つ半ほど小さいその顔を覗きこめば、

「一緒に逃げましょう!共犯ですよ!」

おれの手を握る反対の手で指差した方向には、見つけたぞー!と更に向こう側を手招く西武秩父の姿。ぐいっと傾いた体に前を向き直すと、は楽しそうに笑っていた。

「池袋とけんかしたんです!」

「へえ、珍しいね」

「新宿も国分寺も秩父も、みんなみんな池袋の味方するんです。酷いと思いませんか?」

「しめんそか、だっけ?」

まさにそれです!と言いながらはどんどん走って行く。肩より少し長めの金髪がさらさらと靡いて透ける。太陽なんてでていないのに、そこだけ陽が当たっているようだ。長い階段を登り切ったところで、突然止まったにぶつかりそうになったおれは慌てての横に出る。

、すまなかった!お願いだから戻ってきてくれ、な?」

ぱん、と両手を合わせて頭を下げたのは西武池袋。西武で唯一女の子のはあいつらにそれはもうちやほやされていて、本人はまったく気づいていないが扱いはお姫様そのものだ。その池袋が彼女に暴言を吐くなんて思わないから、おそらくどこかしらに齟齬が発生したのだろう。本気でおろおろした様子の池袋を気の毒だと思いながらも、と一緒にサボれるチャンスをみすみす逃す気はない。

「嫌だよ、池袋のばあーか!」

・・・!」

池袋の悲痛な叫びは届かない。今上がってきた階段からどたどたと騒がしい足音が聞こえたかと思えば、そこにはあわただしく駆けあがって来る青いコートの西武軍団。ここはもう、逃げるしかない。

「しっかり捕まってろよー

ひょいとその小さな体を抱えあげれば、はえっ、と驚きの声を漏らす。池袋の横を器用にかわして走り去ると、後ろから大声でを呼ぶ声やらおれを罵る声が聞こえた。そんなもの気にしてられるか。落さないようにできるだけ揺らさないように痛くないように、細心の注意を払って出来る限りの速さで走る。抱えられたはすごい速い、さすがJRだね!と嬉しそうな声を上げる。それだけで表情が綻んでしまうのはきっと、西武に勝った優越感。それとといられる嬉しさ。

「武蔵野さん、どこ行くんですかー?」

「んー、何処いこっか?」

「考えてないんですか?じゃあね、私お腹すきました」

「あー、おっけ。何食べたい?」

駅前のデパートに最近入ったパスタ屋が美味しい、とこの間埼京が騒いでいた。京浜東北はその隣に昔からあるラーメン屋の方が好きだと言い争っていたのはまだ記憶に新しかった。基本的に常にだるい武蔵野は外出はほとんどしない。だからお金だって使わない。何を食べたいと言っても奢ってあげられるだけの持ち合わせがある自信があった。

しかしの口から出たのはあまりにも以外な言葉で。


「武蔵野さんが作ってくれるものなら何でも良いですっ」

かくんと膝から力が抜けそうになったのをこらえて、西武が追ってきていないことを確認して足をとめる。どうしたんですか?なんておれの腕から飛び降りたが覗きこむから、赤くなった顔を隠すのが遅れてしまった。

「お顔真っ赤ですよ?風船みたいです」

にこりと笑ったは両手をあげておれに向けると、お腹ぺこぺこでもう走れませんから、ともう一度だっこしてくれたらうれしいです。と笑った。可愛い。…確信犯だろうか。

「よし、今日のお昼は武蔵野特製チャーハンな」

「ありがとうございますっ」

そう言いながら抱きあげると、は嬉しそうに首に手をまわしてきた。そうと決まればぐずぐずはしていられない。西武に見つかればは連れ戻されてしまうし、おれはJRに見つかるわけにはいかない。しかしみんなも仕事中だ。駅をでてしまえばそうそう追って来ることも出来はしない。宿舎の自分の部屋まで、を抱いてあと5分。




[君と逃走]





「なんで池袋とけんかしたの?」

「…武蔵野さんのこと好きだなんて趣味が悪いって言うんです。失礼ですよねぇ」

「へー。……ええええ!?嘘!?」

「やだなあ、嫌いだったら、お部屋まで来たりしませんよ」

悪戯っ子のような笑顔に見とれてしまったら、もう逃げられない。