「、お風呂いいよ」
「うん・・・ごめんね」
「いいのいいの。気にすることないよ。ほら、風邪ひいちゃ困るでしょ?早く暖まっておいで」
「ん、ありがとう」
数歩で部屋を横切ると、は脱衣所へ消えていった。ふ、と小さく息を吐き、秋田は着信を知らせる自分の携帯を手に取る。受信メール8件、差出人はみんな上越。がいなくなったから探してくれ、といつもの余裕ぶった態度からは想像もつかない慌てようだ。宛先を見るとそのメールは他の高速鉄道や在来線にまで送られているようで、チェーンメールのように知り合いにまわしてくれと添えられた文末からして、きっとそれよりも多く回っているのだろう。そこまでして上越が探しているは、今秋田の部屋で風呂にはいっている。ざぶざぶと聞こえてくる音に耳を傾けながら、僕は見てないよ、と一言だけの返事を返す。おそらく返信はないだだろう。東海道や東北辺りを巻き込んで、その辺を駆け回ってるはずだ。
そもそもどうしてがいなくなったかと言うと、どう考えても上越が悪かった。そんな昔のこと、と上越が言ったその出来事は、にとってはどうしても忘れられない古傷であった。傷ついたのが自分じゃなければ大丈夫ということにはならない。大切に思う相手だからこそ、自分より痛いこともある。上越だってわかっていたはずなのに。
大きく瞳を潤ませたが部屋に飛び込んできたのは、丁度風呂を上がって久しぶりにお酒でも飲もうかと思った時だった。ガタンバタンと玄関から音がして、驚いて出てみるとがいた。零れ落ちそうな涙を瞳いっぱいにうかべて、僕の名前を呼んで抱きついてきた。なんで泣いてるの、ていうか土足、鍵閉まってなかった?いろいろ聞きたいことはあったけど、とりあえず涙をこぼしてしゃくりあげるの体がずぶ濡れなのは問題だった。
天気予報によると今夜は大雨。窓の外から聞こえてくる音も、それを物語っている。つまりはその中を傘もなしにここまで来たということで、このままじゃ風邪をひいてしまうと思った僕は風呂にお湯をはりなおした。その間に泣きながら話すの言葉の端々に、上越、という名前が出てくる度にズキズキする。あまり聞きたくないんだけどな、特に今は。制服を脱いでシャツ1枚のは、普段から細い体の線が透けていた。それが雨で濡れているもんだから、これは僕じゃなくても眼を反らしてしまうだろう。
ピピピ、という電子音にふと顔をあげると、今度は東北からのメール。短く一言、「いるんだろう?」と。どうしてわかっちゃうかな、と頭をかいて、「いるかもね」と短く返す。送信完了のメッセージを確認したら電源を落として、もう一度玄関の鍵を確認しに行く。怒り狂った上越が踏み込んできたりしたら厄介だ。ガチャリ、と鍵の降りる音に、秋田?と小さなの声がかぶさった。
「あがったの、」
「うん。あったかかった」
「着替え出しておいたんだけどわかった?」
「わかったよ。秋田のシャツおっきいねえ」
ぶかぶかだよ、と笑うの声にようやく振り向けば、肩の位置が不自然に下がったシャツをひっかけただけのがいた。前のボタンは申し訳程度に1,2つしめられていて、それ以外は開きっぱなし。むしろ全開よりもその、そそる格好だ。
「…、ちゃんとボタンしめて」
「ええ、大丈夫だよ」
風邪なんてひかないもん、と少し寂しそうに笑うは、上越との喧嘩を思い出しているのだろうか。寂しいのをごまかそうと無理に笑うような表情に、何故かいらだちを感じた。
部屋に戻り、大き目のサイズのベッドに座る。スプリングのきいたベッドがギシリと軋んで、隣に座ったが転がる衝撃にふわふわと揺れる。思い切りはだけているが視界に入らないようにしながら、携帯に目をやる。チカチカと光っているそれはのものだ。先ほどからブルブルと震えた回数は数えきれないほどで、きっと上越から尋常じゃない量の連絡が入っているだろう。はそれを見ようともしない。
「ねえ、何時帰るの」
「帰んない」
「、ちゃんと仲直りしないと」
「だって私、今回は本当に悪くないよ。謝らない」
「それはわかるけど、」
わかるなら泊めて!と、言いきる前に遮られた。起き上がり背中にのしかかったの体温が気持ちよくて目を閉じると、すっと腕が伸びてくる。
「秋田っていいにおいするよね」
「そう?」
違う。いいにおいがするのはの方だ。いつだって振り返ってしまう、それだけでだとわかってしまうほど僕が焦がれるのはなのだから。
「すきだよー」
「・・・それは上越にだけ言ってればいいんだよ」
「うん・・・」
ドクンと心臓が跳ねたことに、うしろにくっついているは気づいたかもしれない。語尾が弱くともすぐに返ってきた肯定の返事を分かっていたとはいえ少し沈んだ気持ちになって、罪悪感がこみあげてくる。またぶるぶると震えだしたの携帯を取ると、さっきからずっと鳴ってるよ、と手渡した。
「嫌、見ない」
ぺしりと弱い力で払い落された携帯は、ベッドの上でぼよんと跳ねた。絶対謝らないから、と言い張るに、謝ったら赦すの?と問いかける。考えてあげないこともない、と早口で言ったの表情からして、きっともうそこまで怒ってはいないのだろう。喧嘩して意地になって飛び出して、寂しくなってしまったけれど勢いのまま出てきたから戻りにくい。そんなところだ。そういう時に頼りにしてもらえるのは嬉しい半面ひどく複雑で。山陽は危ないとか東海道は堅苦しくて嫌だとか東北は無口だからつまらないとか、それは結局僕はそういう風に見られていないということ。僕だから大丈夫という信頼が嬉しいのもまた事実なのだけど。
「・・・明日の朝、ちゃんと会うよ」
「ほんとう?」
「うん。お仕事もあるし・・・やっぱり、」
会いたい。小さな声でそう言うと、恥ずかしそうに俯いた。可愛いな、と片手でその頬を撫でれば、恥ずかしそうに顔をあげて笑う。このまま口付けてしまおうかという考えが脳裏をよぎって、ごくりと咽がなる。何の警戒心もない無防備な姿に、反対の手を添える。もし僕が上越だったら、はこのままキスをしてくれるのかもしれない。でも僕は上越じゃないから。
「秋田?どうしたの?」
頬に添えられた手に自分の手を重ね、大きな黒い目で僕を見上げる。まっすぐな視線に耐えきれなくなって手を離し顔をそむけると、変な秋田、とはおかしそうに笑った。うん、僕変かもしれない。そう告げるとはぱちぱちと瞬きをして、それから僕の腕を掴んでごろりとベッドに押しつけた。
「秋田も悩み事?私でいいなら何でも聞くよ」
「何言ってるの、僕は大丈夫だよ」
に心配されるなんてなあ、とからかうように言えば、ぷくりと頬を膨らませたがそれ失礼だし!とむくれる。
「こら、そんな可愛い顔しないの」
「かっ、可愛いとか・・・言わないでほしいんだけど・・」
途端に真っ赤になったを心の底から愛しいと思うのに、頭上で再び震えだした携帯の音にはっとしてしまう。今すぐに抱きしめられるところにいるのに、絶対に手に入らないなんて残酷すぎる。本人が無邪気なあまり余計な挑発までしてくるんだから大変だ。しかも天然。
「ほら、読むだけ読んであげたら?それと、今日は泊めてあげる」
特別だからね、と言い添えると、は携帯を受け取り「ありがとう!」と花の咲いたような笑顔を見せた。少し不安そうな顔で携帯を操作するだったが、やがて幸せそうな表情になる。そんな顔見たことないよ、と抗議したくなるような表情から目を反らす。そんな顔、きっと上越の前でしか見せないんだろうな、と。
「、僕眠いからもう寝るよ」
「あ、うん。おやすみ秋田」
「おやすみ。ベッド使っていいから」
ソファーで寝ようと立ち上がると、の手が服の裾をつかんだ。
「一緒に寝ないの?」
「・・・は?何言ってるの」
「え、だって私が泊めてもらうんだし。じゃあ私がソファーで寝るっ」
「だめだよ、は女の子でしょ」
「だから一緒に寝ようよ・・・」
うるうるした目で見つめられたら、うっかり頷いてしまいそうになる。
「だめ。ねえ、僕だって男なんだよ?」
知ってた?と声にならないような声で言うと、きょとんとしたの額に口付ける。このくらいならゆるされるだろう。を悲しませた上越への嫌がらせだ。真っ赤になって口をぱくぱくさせるの頭をそっと撫でる。
「っ、秋田・・・」
「ね、だからだめなの。おやすみ、」
「・・・おやすみなさい・・・」
振り返ったら我慢できなくなりそうで、僕はの姿を視界にいれないように部屋を出た。
[あと1歩届かない距離]
「っ!ごめん、僕・・・」
「もういいよ上越。私は謝らないけど」
「うん。ほんとごめん・・・」
ぎゅうと上越に抱きしめられるを後ろから見て、小さくため息をつく。
やっぱり敵わないなあ、と頭をかくと、を抱きしめた上越が上目づかいにこちらを見た。
射ぬくような、鋭い目で。
(何もしてないだろうね)
(・・・してないよ)
口の形だけでそれを読み取ると、同じく肩をすくめて返してやる。
上越、との綺麗な声が愛しそうにその名前を呼び、同じ響きで上越が返す。
他の人には絶対向けないような笑顔で上越がにキスをするのを見ないように、そっと顔を反らした。