非常に困っている。事の始まりは簡単だ。いつも通りに起きて、いつも通りに支度をして、いつも通りに出勤したまでは良かった。ただいつもと違ったのは、今日が上越上官の開業日だったということ。忘れていたわけではない。むしろ直属の上司ということもあり、手帳にしっかりと印までつけてあったのだ。ただ、その開業日に、何かをプレゼントするなんてこと考えていなかっただけで。業務終了後にでも、おめでとうございますと一言伝えれば良いくらいに考えていた。こんなことになるくらいなら、もっと早く何か用意しておくべきだったのだ。
 だってまさか、こんな。

「高崎、緊張してるの?」
「いっ、いえ…」
「ふふ、いいよ気を遣わなくて。もう仕事は終わってるんだしね」

 いつになく上機嫌な上越の後ろを、そわそわと辺りを見回しながらついて行く。どこのホテルだと疑いたくなるような内装の建物は、高速鉄道専用の宿舎だ。ワンフロアを一人で使えるほどの広さをもったそこは、在来線なんかがいて良い場所じゃない。雰囲気に圧倒され、そしてその中をさも当たり前のように歩く上越を改めて上官なのだと認識する。一生手の届かない、高みの存在であると。そんな彼に逆らえるわけもなくずるずると引きずられるように着いて来てしまったのだが、やはり断るべきだった。
 上司のプライベートルームに踏み入るなんて、出来ることなら経験せずにいたいことなのだから。
「どーぞ」
「お、お邪魔します…」

 エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。箱が上がっていく間上越はずっと静かだったが、その表情はひどく嬉しそうだった。この後何をされるかなんて考えたくもないし、いかにして逃げ出そうと策略したところで上越にかなうはずもなく。

 ロビーよりはいくらか質素な造りの部屋にあがりこむと、丁寧に靴をそろえる。それを見た上越が愉快そうに笑うのさえドキドキして手が震えてしまう。ああもう本当、いったいどうしたら。

「そんなに緊張しなくていいのに。大丈夫だよ、取って食ったりしないから」
「えっ」
「…何、食べて欲しかったの?」

 それがプレゼントでも良いかもなあ、と目を細める仕草にドキっとして、それからすぐに弁解する。すると「高崎は真面目だね、」とイマイチよくわからない言葉を漏らして、紅茶でも淹れるよ、と立ち上がった。

「あ、上官、そのくらい自分が」
「僕の部屋のもの、勝手に使うの?」
「っ!そ、そうでした…!申し訳ありません上官…!」

 上越の言葉に一気に冷えた体温が、その笑い声でゆっくりと熱を帯びる。赤くなったり青くなったり忙しい高崎の気など知ったことではない上越が台所へ消えていく。その背中を見送り、改めて部屋を見回してみる。
 予想通りと言うか何というか、上越の部屋にはあまり物がなかった。リビングにはシンプルなデザインの小さなテーブルがひとつ、それと高崎が今座っているふかふかの大きなソファーだけ。寝室がどうなっているのかは扉が閉まっているから見えないが、多分ここと大して変わらないのだろう。

「どうかしたの、きょろきょろして」
「いっ、いえ!」
「ふふ、何もないでしょ」

 コトンと小さな音を立ててテーブルにマグカップが置かれる。見上げると上越は自分のものを持っているから、それは自分のものだろう。礼を言って一口飲むと、名前は知らないが随分と落ち付く香りが口内に広がった。

「…あの、」
「ん?」

 何、と聞き返す上越の声はいつも通りで、機嫌さえ悪くなければ至って仕事のできる良い上司なのだ。東海道のように何かと注意をしてくるわけでもなく東北のように寡黙なわけでもなく、長野のように気を使うこともない。ただそれと比例して、機嫌が悪い時のどうしようもなさと言ったらないのだが。
 声をかけてから、いったいどう切り出せば良いのかと口ごもる。突然おめでとうございますだなんて言ってもおかしいし、かといって長々と意味のない前書きを垂れるのも面倒だ。

「どうして俺をここに連れて来たんですか」
「嫌だった?」
「そんなことありません!」

 つい大声を出してしまい、驚いた上越がぱちりと瞬きをした。

「あ、いえ…その、…すみません」
「・・・・・・、だよ」
「え?」

 聞こえませんでした、と聞き返しても良いのか多少戸惑うほどの、聞かせる気などなかったかもしれない小さな声。そろりと隣に座る表情を窺えば、僅かに赤くなった顔をそらそうとする。

「上官?」
「…待って、見ないで」

 細い腕をぐいと掴むと、反対の手で顔を隠す。その仕草があまりにも愛しく思えたので、高崎は思わず喉を鳴らした。どうしても顔を見られたくないのか、掴んだ腕の方にことりと体重を預けてくる。座っていても高崎の方が身長が高いので自然とその頭は胸元におさまってしまい、抱きしめて良いのかと戸惑う。しかしどうしようかと思ったのもほんの数秒で、上越の腕が高崎の背中に回る。

「一緒に、いてくれればそれで良いよ」

 おそらく、さっき小声で言ったのはそれだったのだろう。たったそれだけを言うために、こんなにも真っ赤になってしまうような人が上官だなんて信じられない。ぎゅう、と抱きしめ返すと細い体がふるりと震えて、羞恥に潤んだ瞳と目が合う。

「…いいよね、」
「YES,上官」

 答えた声が存外頼りなく震えていたから、自分の顔も赤くなっているのだろう。だから、腕の中で再び俯いてしまった上越の頬を掴んで上を向かせる。

「上越上官、開業日おめでとうございます」
「ありがとう、たかさき」

 自分を呼ぶ声上越の声と、日付を跨ぐ時計の音が重なる。

「…終わっちゃいましたね」
「どうでもいいよ」

 それでも高崎はいてくれるんでしょうと、上越はいつになく綺麗に笑った。






merci,merci,merci!








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上越上官おめでとうございます!きっと本人的には複雑なのかもしれませんが、上越上官が大好きな私としては開業ありがとうって気持ちでいっぱいなのです。
日付が変わった時はついったでむき栗でお祝いしました。むき栗。みかんにはカビが生えていました。